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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.03
今日の言葉

開山さまのご命日 – 開山忌 –

本日十月三日は円覚寺の開山、仏光国師のご命日の法要を行う日であります。

円覚寺においては、一年の行事の中でも最も大切な、そして最も盛大な行事なのであります。

本来は、お隣の建長寺からも管長さまをはじめ一山の和尚様方もお招きして行うのですが、まだコロナ禍の為に行事を縮小して行っています。

それでも円覚寺派の和尚様方が集まって開山仏光国師のご命日の法要を行っているのであります。

私もこの日には円覚寺派の管長としても最も正式な法衣と袈裟をつけて行事に臨んでいます。

修行僧たちは、この日に向けて境内の清掃に励んでくれていました。

前日の二日に準備をして、その午後にご命日の前の晩の法要を行います。

三日の朝には、仏光国師にお粥を差し上げる法要を行い、お昼に正式な法要を務めているのであります。

仏光国師は、本来弘安九年(一二八六)の九月三日にお亡くなりになっていますが、いつの頃からか一月遅れの十月三日に開山忌の法要を務めるようになっています。

円覚寺は、弘安五年(一二八二)に、鎌倉幕府の時の執権北条時宗公(一二五一~一二八四)によって開創されました。

その前年に、弘安の役があり、そこで亡くなった多くの人達を弔う為でもありました。

元寇と円覚寺は大きな関わりがございます。

文永十一年(一二七一)、モンゴルは、国を大元に改め、高麗に命じて約四万の軍勢をもって日本を攻めさせました。これが文永の役です。

対馬、壱岐では、必死の奮戦も空しく全員が虐殺されてしまいました。

更に元軍は、博多湾を襲い、箱崎附近に上陸しました。

日本の武士たちも懸命に応戦した結果、元軍は海上に退却し、その夜のうちに撤退していきました。

更に弘安四年(一二八一)、元は東路軍四万の軍勢を朝鮮半島から派遣し、更に江南軍を南方から十万の軍勢をもって攻めてきました。

両軍必死の戦いが二ヶ月にわたり続きましたが、暴風雨によって元軍は撃破されてしまったのでした。

その明くる年に円覚寺が開創されたのでした。

無学祖元禅師こと仏光国師は、一二二六年に、明州慶元府に産まれ、十二歳の時父と共に山寺に遊んで、ある僧が「竹影、階を払って塵動ぜず、月、潭底を穿って水に痕無し」の句を吟じたのを聞いて、出家を慕ったと伝えられています。

十三歳の時、浄慈寺の北澗居簡禅師について出家し、十四歳で径山万寿寺に上り、十七歳の時に無準師範禅師に参じて、趙州無字の公案を与えられて修行しはじめています。

五年ほどの間禅堂から外に出ずに坐禅に励んだというほど苦労をなさった末に、二十二歳のある日、朝まで打坐して首座寮前の板声三下するを聞いて悟りを開きました。

まもなく仏鑑禅師はお亡くなりになって、その後虚堂智愚禅師など当時の名だたる禅匠に歴参し、三十歳の時物初大観禅師のもとで浄頭を勤めて井戸水を汲もうとして轆轤を牽動してその回転の音によって大悟しました。
 
更に三十歳から七年の間、白雲庵で庵居して母と暮らし、心境を更に深めたのでした。

そして四十四歳の時に、台州真如寺の住持に請じられ、七年ほど住することになりました。

五十一歳の時に、元軍の侵入によって兵乱が相次ぎ、難を逃れて鳫蕩山能仁寺に寓居し、その折り、寺にも元兵が侵入してきました。

寺の者は皆逃げましたが、仏光国師は一人端然と坐して動ぜず、軍士が刃を頸に加えた時に一偈を唱えました。

「乾坤、孤筇を卓つるに地無し、喜得す人空法亦空なるを。
珍重す、大元三尺の剣、電光影裏、春風を斬る」という偈であります。

意訳しますと

「この広い天地のどこにも、杖一本を立てられそうな余地もない。

しかしうれしいことには、人ばかりか法もまた空なのだ。

ありがたく大元三尺の剣を受けよう。

たとえこの私を斬ったところで、いなびかりがキラッと光る間に、春風を斬るようなものだ。」

というところです。

その泰然自若たる様子に打たれた元兵は、悔謝して退いたと伝えられています。

その後弘安二年(一二七九)に日本に招聘されました。

北条時宗公が、使者を遣わしてお招きしたのでありました。

そして弘安の役の翌年、円覚寺が開創されましたが、これは、もともと時宗公が、父時頼公が建長寺を開創したように、自分の代にも一ヶ寺を建立したいという思いがあったようなのであります。

それと共に、二度にわたる元寇で多くの戦没者が出てしまい、その菩提を弔う為に新寺を建立しようとされたのでありました。

その折りには、古来仏教で説かれる「冤親平等」の教えに基づいて、日本兵のみならず、元軍の兵士も共に弔うこととしたのでした。

時宗公は、弘安七年(一二八四)三十四歳で亡くなり、仏光国師は懇ろな法語を手向けています。

更に弘安九年(一二八六)、九月三日には仏光国師もまた遷化されました。

お亡くなりになって今年で七百三十六年になります。

私が第二百十八世なのであります。

そんな伝統と歴史の重さを感じるのが開山忌の行事でもあります。

 
横田南嶺

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