若き人に
珍しいことであります。
特別円覚寺と縁があるわけでもなく、宗教関係の学校でもありません。
どういうわけかと思うと、何でも担当の先生が私の文章を読まれ、更にこうしたYouTubeの法話などを聞いて関心を持たれたということでした。
そこで、今の中学生にも是非話をして欲しいという御依頼だったのでした。
若い方の為に話をさせてもらえることは有り難いことです。
喜んでお話させてもらいました。
控え室で、今までで僧侶が話をしたことがありますかと聞くと、その場にいた先生方は、自分たちの記憶にはないということでした。
異例のことなのでしょう。
二百五十名ほどの中学生に五〇分の話をさせてもらったのでした。
大きな講堂に入ってゆくと、中学生たちは私の姿を見て、どよめきがおきました。
たぶんお坊さんの姿など普段見慣れないのでしょう。
頭を剃って衣を着た僧が入って来て、何事かと思ったことでしょう。
そこで、私も開口一番、
「宗教の評判が悪いこの頃、私のような者がここに来てみな驚かれたことと思います。
別段皆さんを勧誘しようと思ってきたわけではありません。
むしろその逆で、宗教家にだまされるなと申し上げたいのであります。
そういう私も宗教家ではないと言われることでしょう、その通り、この私の話すことにもだまされないようにして欲しいのです。」
ということから話をし始めました。
五十分を三つに分けて、はじめの十五分で私の今日までの歩みを話ました。
お坊さんといっても寺の生まれでもなく、特別に縁があったわけでもないのに、今日まで到ったご縁について話をしました。
いつもの通り、死について見つめることから始まった歩みを紹介したのでした。
この話には、とても関心をもって聞いてくれたように感じました。
ただ繰り返し強調しておいたのは、今進学を目指して一所懸命に勉強している皆さんには、私の生き方を決してマネしないようにしてくださいとということでした。
これだけは念を押したのでした。
受験勉強などろくにせずに坐禅をしていたなどというのは、今の社会では受け入れられないことであります。
二番目には、円覚寺の開創の根本精神である怨親平等について話をしました。
鎌倉時代のこと、北条氏のこと、元寇、そして円覚寺の開創について話をしながら、開山仏光国師の説かれた怨親平等について語りました。
敵も味方も平等に供養するという教えであります。
『法句経』の第五番
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。(中村元 訳)」
の言葉を紹介して、サンフランシスコ講和会議におけるスリランカのジャヤワルダナ氏の演説にも触れました。
ジャヤワルダナ氏は、このブッダの言葉を引用して、日本に対する賠償を放棄されたのでした。
怨みに対して怨みで報いていたならば、報復の連鎖がやむことがないのです。
そしてこの怨親平等の教えの基盤となる華厳の教えについても触れました。
円覚寺のご本尊が毘盧遮那仏であることから、毘盧遮那は「光明遍照」と訳されること。
無限の光が遍く照らしていることです。
仏とは、この無限の光明そのものであること、そしてその光が太陽のようにえり好みをせずに、あらゆるものを平等に照らしていること、毘盧遮那仏はその太陽のようなものだと話をしました。
そのようにして照らされたすべての存在は皆、仏のあらわれとして輝いていて、そこには悪とか迷いというものはなく、敵も味方もないのだということを話したのでした。
そして三番目には、宗教について話をしました。
この話はこの頃よく行っているものです。
鎌倉時代の話から、時代がグッと古くなって、二十万年前の話になりました。
ホモサピエンスの話であります。
『サピエンス全史』にある言葉を引用しながら、
「一対一で喧嘩をしたら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。
だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。」
ということ、それはなぜかというと、
「彼らはライオンの居場所についての情報は共有できたが、部族の精霊についての物語を語ったり、改訂したりすることは、おそらくできなかった。
彼らは虚構を創作する能力を持たなかった」ことに触れて、
その虚構とは、貨幣と帝国と宗教であることを話をしました。
この三つの虚構によって、人間は力を合わせてひとつになって生きることができるようになったのです。
だから宗教というものは人間にとっては無くてはならないものだということを話したのでした。
そして近代になると資本主義、共産主義、ナショナリズムという新たな宗教もあることに触れました。
何らかの宗教の影響を受けているのがお互いなのであります。
そこで
「報道によって聞いたことを受け入れてはならぬ。伝説(いいつたえ)をそのまま受け入れてはならぬ。経に載せられてあるということや、そうかも知れぬという想像や、自分の見解に合うているからとか、又は名高い出家の語であるというようなことで、受け入れてはならぬ。
何時でも正しく、自分にこの法はよくない、罪垢があり、真の智慧ある人には厭われており、それに執着すれば不利と苦悩を招くものであると知ったならばそれを避けねばならぬ。」
というブッダの言葉を紹介して、何がよいのかを判断するために
『法句経』一六〇番の
「自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」
の言葉を紹介して、自己をよく調えることを話したのでした。
その調えるには、食事、睡眠、姿勢、呼吸、心を調えることですと伝えたのでした。
質疑応答の時間まではとれなかったので、どのように受けとめてくれたのか分かりませんが、皆さん熱心に聞いてくれたのでありがたく感謝したのでした。
横田南嶺