恩徳忘れがたし
いまだコロナ禍のおさまらぬ中で、東京都内の円覚寺派寺院、十ヶ寺の和尚さまのみにてお勤めさせてもらいました。
昭和五十八年の二月に、私は初めてこの龍雲院を訪ねて、小池心叟老師にお目にかかったのでありました。
もう三十九年前のことになります。
坂村真民先生に「めぐりあい」という詩があります。
めぐりあい
人生は深い縁の
不思議な出会いだ
世尊の説かれた
輪廻の不思議
その不思議が
今のわたしを
生かしてゆく
大いなる一人のひととのめぐりあいが
わたしをすっかり変えてしまった
暗いものが明るいものとなり
信じられなかったものが
信じられるようになり
何もかもがわたしに呼びかけ
わたしとつながりを持つ
親しい存在となった
大いなる人との出会いが人生を変えてゆくものであります。
思えばいろんな方にお目にかかって今日に至りました。
まだ小学生の頃に、興国寺の目黒絶海老師にお目にかかりました。
この方に出会って坐禅の道があることを知りました。
中学生の頃に、松原泰道先生にお目にかかりました。
この方に出会って、この道の間違いのないことを知りました。
そして高校生の頃に山田無文老師に出会って、この道に進もうと思いました。
更に大学生になって小池心叟老師に出会ったのでした。
この老師のもとで私は僧侶にしてもらったのでした。
生涯の大恩人であります。
老師は大正三年十一月五日、東京牛込に生まれ、幼くして父を亡くし、少年期から島根県枕木山華蔵寺に小僧として預けられました。
そこで厳しい小僧生活を送られます。
今の時代には考えられないようなご苦労をなさったとよく仰っていました。
学校は紫野中学に編入し、卒業してからは建仁寺僧堂に掛搭し、竹田頴川老師、竹田益州老師に参じて益州老師より嗣法されます。
その後建仁寺山内の堆雲軒に入って住職されていました。
更に、昭和三十年四十歳の時、上京して白山の龍雲院に住されます。
爾来五十二年間を老師は白山道場龍雲院を離れることはありませんでした。
晩年ご病気になって、平成十七年の暮れに、兄弟子の遠藤楚石老師の命によって、私はこの寺の兼務住職を務めるようになりました。
老師は平成十八年の十二月九日に御遷化なされました。
九十二歳でありました。
老師がこの寺にお入りになった頃は、戦災を受けて龍雲院の伽藍は灰燼に帰した跡でした。
境内は瓦礫の山と化し、六畳一間のバラック生活だったとよく仰せになっていました。
そんな中をご苦労されながら寺院を再興し、本堂書院庫裏を整えられました。
とりわけ本堂は都心には珍しい木造建築で、禅の道場にふさわしいたたずまいを見せています。
お元気な頃の老師は、日中常に作務三昧でした。
剪定鋏を離さず、庭木の手入れに境内掃除、寺に来るものがいつもさわやかでさっぱりとした気持ちになれるよう心を配っておられました。
私も学生の頃から常によく一緒に境内の掃除をさせてもらったものであります。
八十歳になってもよく動かれる老師でありました。
この老師のもとに参じるようになったご縁を作ってくださったのは松原泰道先生でありました。
筑波大学に入学して、まだ何も分からない私は、坐禅をするにはどこに行ったらいいのか松原先生に相談したのでした。
先生は言下に、白山の小池老師のところがよいだろうとお薦めくださったのでした。
そこで当時は何の情報もありませんので、電話をかけて、場所と坐禅会の日時を教えてもらいました。
電話に出られたのが小池心叟老師その人でありましたので、驚いたものでした。
小池老師の声は、その前にラジオの宗教の時間でうかがったことがあるのです。
お寺を訪ねても玄関に出て見えたのも、坐禅の手ほどきを教えてくださったのも老師ご自身で、これにも驚いたものでした。
その前に坐禅に行っていた由良の興国寺では、数名の修行僧や僧侶がいて、老師が直接電話に出たり、客に応接することはなかったからでした。
しかしながら、あとで分かったことは、白山道場龍雲院といっても小さなお寺で、当時は老師お一人だったのでした。
私が目黒絶海老師のところで坐禅をして独参もしていたことを告げると、絶海老師のことをよくご存じのご様子で、すぐに独参を受けてくださったのでした。
心叟老師にもそれから長く独参をさせてもらい、この老師のもとでずいぶんと公案も調べさせてもらったものでした。
老師のもとで在学中に出家させてもらったのです。
そして、老師の弟子として、大学を卒業と同時に修行道場に出掛けたのでした。
この老師がいなければ今の私はないのであります。
満十八歳の頃からお世話になってきましたので、いろんな思い出があります。
ご恩を思うと感慨深いものであります。
お元気な頃も御立派でありましたが、晩年のまた素晴らしいものでした。
八十歳を過ぎてもなお矍鑠とした老師でしたが、晩年病を得て急にお弱りになり、最後の一年間は入退院を繰り返すようになりました。
老師はどんなことでも自ら実行、人の手を煩わせることを嫌ったので、ご自身のお体が不自由になってゆくのは、どんなにかお辛かっただろうかと、察するに余りあります。
しかしながら、老師は常に泰然自若として、お心を乱されることもありませんでした。
私ども傍に仕える者にも、決して苦痛を訴えることはありませんでした。
静に自己に現われる現象のすべてを受け止めていらっしゃいました。
病院のベッドの中にあっても叉手当胸という禅僧の姿を崩されませんでした。
長い入院生活の中でついぞご自身でナースコールのボタンを押されたことは無かったのでした。
お見舞いに来た者があれば、常に相手を気づかい、にっこりほほえまれておりました。
その笑顔はまさしく素晴らしいものでした。
破顏微笑、美しい笑顔でした。お元気な頃はもとより、そのご病床のお姿にも、ご最期にもかけがえのない教えをいただきました。
老師は平素から無理な延命治療は無用と言われていましたので、それらはすべて断り、十六年前の十二月八日世尊成道の日に危篤、意識を失い、心臓停止は九日未明に持ち越されました。
老師はおそらく世尊成道の日に旅立ったとお思いになっていることでしょう。
葬儀は簡素にというご遺言でしたが、その本葬儀には、何名もの管長、老師方が参列くださったのでした。
あれから十六年の歳月が流れました。
恩徳は今も忘れがたいのであります。
横田南嶺