なにがあっても、ありがとう
鮫島先生は、大正十一年一九二二年のお生まれで今年百歳なのであります。
渋沢栄一翁の御孫さんであります。
三年ほど前に一度お話を伺ったことがあります。
その時は97歳でありましたが、お伴の者もつけずにお一人で会場にお越しなっていたことを覚えています。
その時に、私が鮫島先生に、
「どなたかお伴の者はつけないのですか」と聞きますと、「講演なり、なんなり、誰か一人つけてゆくと、交通費など先方にご負担をかけますから、新幹線でも飛行機でも一人で乗ってまいりますの」と静かに仰せになったことを覚えています。
素晴らしい心がけだと思いました。
その後、大河ドラマで渋沢栄一翁のが取り上げられたりして、また一層お忙しくなったのだろうと察します。
三年前とは些かのおかわりのないお姿には驚きました。
控え室でもご挨拶させていただきました。
そして何より驚いたのでは、今回の研修大会は二日間に亘るもので、鮫島先生は二日目の第一講の講師であるのに、その初日からすべての講演を聴かれていたことであります。
長時間の講演をずっと椅子に坐って聴くというのはけっこうたいへんなことです。
また私のような若輩者の講演までお聴きくださって恐縮したのでした。
実に物静かで、気品のある先生であります。
私は有り難いことに、この研修会の期間中、鮫島先生の隣ですべての講演を拝聴させていただきました。
常にきちんと姿勢を崩さずに坐っておられたお姿には感銘を受けました。
ご本人の講演も、80分ほどの時間ですが、メモも何も持たずに、立ったままよく透る澄んだお声でお話くださったのでした。
あのお年で、一時間以上も立って講演するのは体力の要ることでありますが、体力知力ともに衰えがないので敬服するばかりでありました。
講演の壇上にあがるにも少しの階段があったのですが、手すりもない階段をお一人であがり降りされていたのでした。
実に謙虚にお話なさるお姿にも心打たれました。
まずはじめに鮫島先生は、十一年前の東日本大震災の少し前に詐欺の被害に遭った話から始められました。
電話で「今からカードを取りに伺うので、ガムテープでしっかりと縛り封筒に入れ、封印して渡してください」といわれて、
先生は、おかしいと思いながらも、「どんな電話でも丁寧に応対しよう、訪ねてくれた方には礼を尽くそう」という日頃の習慣のままに行動して相手の言うままに行動してしまったそうなのです。
それですっかり騙されたというのでした。
倹約生活を重ねて貯めていた家の改築資金を失ったというのです。
しかし鮫島先生は、「犯人が憎い、悔しいといった気持ちは浮かんできませんでした」と仰っていました。
このことは先生のご著書『なにがあっても、ありがとう』(あさ出版)にも書かれています。
その本から引用させていただくと、先生は、
「それよりも、「犯人は大金を手にしただろうけど、人を欺くという大罪は遺伝子に記録されてしまうでしょうに…」といった、犯人の心を案ずる想いが湧いてきた」というのであります。
「この世にいる間にルール違反に気がついて反省しなければ、 来生でもまた同じような悪事を繰り返し、自分で自分の首を絞めるような不幸な運命をつくってしまう恐れがあります。
そのようなことを知らず、現世の利益を求めて悪事をはたらいている犯人に、人生のしくみを伝えたいという想いで一杯でした。」
というのですから、驚きであります。
「犯人に人生のしくみを教えてあげたいという気持ちを持つと同時に、そのような悔しい事態を冷静に受け止められた自分自身に対して感謝にも似た気持ちを抱きました」と書かれています。
そのことを今回の講演でも静かに語ってくださいました。
本の題名のとおり、なにがあってもありがとうの先生なのであります。
そんなお話をうかがいながら、三年前に聴いた話もあれこれと思い出しました。
私が「今までご病気などはなさらなかったのですか」とうかがいますと、「近年心筋梗塞を患ったのだ」と仰いました。
突然胸が痛み出して、激しい痛みにどうしようもなくなって、咄嗟に祈ったのだと仰います。
何を祈ったのかといいますと、ただありがとうございますとだけ祈ったのだというのでありました。
そしてその時静かに先生は、
「神仏にはお願い事をするのではなくて感謝の祈りだけでいいのです」と仰せになりました。
神仏にお願いことをするのではなくて、感謝だけすればいいという言葉に、私も心打たれました。
そんな思いの原点となる体験を三年前に親しくうかがいました。
それは先生がまだ小学校の低学年の頃で、父に連れられて汽車で名古屋まで出かけた時の話であります。
二等車といいますから今のグリーン車だと思います。
その中でお父様は一生懸命にお仕事をなさっています。
その車輌で背中合わせに坐っている、いかにも上品な白髪のご老人が、ノートの切れ端に「名前は何といわれますか」と書いたのを渡されたといいます。
自分の名前を書いて返すと、今度は「どこまで行かれますか」と書かれて紙を渡されます。
「名古屋まで」と書いて答えます。
「お年はいくつ」と書かれてきて、「何歳」と書いて答えるというやりとりをしていたそうです。
そうしている内にお互いに心が打ち解け合って、直接話し合うようになったそうです。
「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということはなんとお幸せなことでしょう」と言われて、まだ幼いその子の指をとって一本一本折り曲げながら、誰のおかげでこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
お父様、お母様、それから留守番の方、旅に出る仕度をしてくれた方、列車を運転してくれている運転手さんに到るまで、一人一人指を折って数えてゆきます。
そしてそれも尽きかけた頃には、そのご老人が「お天道様や空気や雨もなくてはなりませんね」と言われました。
そして更に「お天道様に空気やお水、雨、それらはどなたがくださったのでしょう」と問いかけられたというのです。
そこで「大いなる恵みの中に我々は生きているので、誰一人として自分だけの力や働きで生きていられるのではない」ことを話してくれたそうなのです。
汽車が名古屋に着くと、父が起ち上がりそのご老人に気がつくと、丁寧に礼をなされて、「先生じゃいらっしゃいませんか」と言われました。
そのご老人はなんとあの新渡戸稲造先生だったという話でありました。
鮫島先生のおじいさまである渋沢栄一翁にも同じような教えがあります。
これは先生のお父様にあたる、渋沢栄一翁のご子息の話です。
受験の前の晩にいつもお参りしている神社にお参りするのを忘れたというと、渋沢栄一翁が「お参りに来たから応援する、来ないからだめだという神なら本物ではない、神様には感謝だけでよい」と言われたというのであります。
なにがあってもありがとうと感謝する、簡単なことのようで難しいことであります。
また私のような若輩者がいうのと違って、本当にそんな気持ちで生きてこられてお元気に百歳を迎えられた鮫島先生が、静かに仰せになると、実に説得力があるのです。
そのようなすぐれた諸先生方にお目にかかることができるのも、講演の講師を務めさせてもらったおかげであります。
横田南嶺