大きく坐れ
それでもやはり「大きく坐れ」ということについてお話します。
釈宗演老師が、『宗演禅話』のなかで、
「先ず、此の三千大千世界を以て吾が伽藍と」なすようにと書かれています。
今私でしたら円覚寺という寺の中にいますが、しかし、実際にどこから円覚寺なのかというと、一応土地としての境界はありますものの、元来は、どこからどこまでという区分はないものです。
この広い天地にどかっと坐っているのであります。
三千大千世界というと、難しい仏教語でありますが、この大宇宙であります。
三千大千世界というのは、古代インドの壮大な世界観、宇宙観であります。
私たちが今住んでいるのは、真ん中に須弥山という高い山があって、そのまわりを四大洲という島があって、その南の島なのです。
そのまわりに九山八海という山と海がぐるぐると取り囲んでいます。
これがわれわれの住んでいる一須弥世界で、この一つの世界を千集めたのを小千世界といいます。
さらにこの小千世界を千集めた世界を中千世界といい、中千世界をさらに千集めたものを大千世界というのです。
大千世界、中千世界、小千世界の三種の千世界から成るので、三千大千世界というのです。
今私たちが習っている宇宙観にも似通っているように感じます。
太陽を中心に、そのまわりをぐるぐると回る星があって、その地球という星に今私たちは住んでいます。
この太陽系がいくつも集まって銀河系になり、銀河系がいくつもあつまって大宇宙なのであります。
そして、この大宇宙が私の寺なのだというのであります。
その大きな伽藍の主人公としてどかっと坐るというのであります。
まだ私が二十代の頃、はじめて円覚寺に来た頃に、当時の師家であった足立大進老師から言われたことがあります。
もう三十年以上前のことですが、今もって忘れがたい有り難い教えであります。
はじめて修行に来た頃というのは、新到といって諸先輩から厳しく指導を受けるものであります。
私の場合それまでにすでにいくつかの修行道場で修行してきて、修行自体にはかなり慣れていたものの、それでも初めて修行するところでは、いろんな作法も異なりますので、それなりの苦労があるものです。
そんな頃に足立老師が、坐禅堂の片隅でちょこんと坐っていると思うな、この天地の主だと思って大きく坐れと教えてくださいました。
この天地宇宙をひっくるめて一枚の蒲団としてそれをお尻の下に敷いて、この大宇宙の主人公になったつもりでどっかり坐れということでした。
そして老師は、「四畳半の部屋に坐ったら四畳半一杯に坐り、坐禅堂に坐ったら坐禅堂の空間一杯に坐るのだ」と教えてくださいました。
そうして老師はご自身のお師匠さんである朝比奈宗源老師のことに触れられました。
朝比奈老師というお方は小柄な老師であったが、実に八畳間に坐れば八畳間いっぱいに坐っておられ、本山の大書院という広間に坐ってもその広間いっぱいの坐っておられる迫力があったと話してくださいました。
坐禅というのは、有り難いものです。
新到でまだ慣れない頃には、日常のさまざまなことで指導を受けるものであります。
ご親切に教えて指摘くださっているのでしょうが、時には疎ましく感じることもあるものです。
しかし、坐禅中はしっかり坐ってさえいれば誰にもなにも言われることはないのであります。
居眠りしていたり、姿勢が悪いと、これまた注意されてしまいますが、腰骨を立ててしっかり坐っていれば誰にもなにも言われないので、天地の主になった気持ちになることはできるのであります。
ただ腰をしっかり立てていないと大きく坐ることはできません。
腰が引けてしまっていては腰抜けになってしまい、小さく縮こまってしまうのです。
そのように大きく坐って、宗演老師は、この我が身、我が心は何だとよく見よと説かれています。
自分の体と思っているけれども、これは天地大自然の一部なのだというのです。
たしかにそうでしょう。
自分で設計して作ったものではありません。
勝手に自分の体だと思い込んでいるだけで、大自然の一部でしかないのであります。
心にしてもそうだというのです。
目も耳も鼻も舌も手足もみんな自分のものではなくて、大自然の一部なのです。
そのなかのどれを自分だと思い込んでいるのか、坐ってよく考えてみよというのであります。
自分だ自分だと思っているのは、実に思いこみにすぎないと分かってくると、自ずと天地と自己とは一体になっていると感じるのであります。
自分と外の世界という区別がなくなってひとつに溶け合った世界になるのであります。
そうして自己という思いこみの枠が外れてくることを大死一番というのだと宗演老師は説かれています。
もっともそのように思っているだけでは、まだまだ真の悟りとは言い難いけれども、近いところに来ているというのであります。
この天地大宇宙の気を鼻からいっぱいに吸い、おなかの下、おへその下におさめて、そうしておへその下、丹田から鼻を通して天地大宇宙にいっぱいに吐き出してゆきます。
天地の気を吸い天地の気をいっぱいに吐き出して、天地いっぱいのいのちを生きていることを体感するのです。
あれこれと悩み苦しんでいるのは、いったい私たちのどの部分か考えてみましょう。
広い大宇宙の大きなところから見れば、それは私たちの小さな体の中の、そのまた、小さな頭の中でゴチャゴチャと問題をかきおこしてしているに過ぎないのです。
自分の体は天地大自然の一部だということ、そして天地いっぱいに呼吸をしている様子を見ていると、いったいどこに苦しんだり、悩んだりしている様子があるのでしょうか。
そんなことを、しずかに見つめてどっしり大きく坐ってみましょう。
横田南嶺