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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.01
今日の言葉

かたよらない心

今日から七月であります。

早くも今年の半分が過ぎました。

連日厳しい暑さが続いています。

いかがお過ごしでしょうか。

六月の最後の日曜日二十六日に、毎日新聞の文化欄に、小池陽人さんの連載記事が載っていました。

「僧侶陽人のユーチューバー巡礼」という記事であります。

今回は二回目であります。

月に一度の連載です。

今回の対談相手は、榎森(えもり)耕助さんという方であります。

なんでも新聞記事によれば「気になる政治や社会の問題に果敢に切り込むユーチューブ動画で人気のお笑い芸人「せやろがいおじさん」」のことだそうです。

残念ながら、この榎森さんのことを存じ上げていませんでした。

しかしながら、この新聞の記事を拝読すると、とても見識の高い方だと思いました。

小池さんも、この榎森さんのことについて、記事には次のように書かれています。

一部を引用させてもらいます。

「政治や社会問題について積極的に発信している榎森さんですが、一方で聞くこと、対話することの大切さを重視されています。

著書の「せやろがい!ではおさまらない」に書かれていた「ドッジボールではなく、キャッチボールを」という例えがすごく大事だと思いました。

一方的に発信するのではなくて、相手の意見を受け入れる余白を常に意識されていますね。」

と語っておられます。

ドッジボールというのは、相手を倒すためにボールを投げるのでしょうし、キャッチボールは、お互いに取りやすいようにボールを投げるのでありましょう。

ドッジボールよりもキャッチボールという喩えはなるほどと思いました。

更に小池さんは、

「新型コロナウイルス禍でも「コロナ差別」や「自粛警察」などの言葉で表されるいろんな分断が起こりました。

そんな時にどうすればいいのか。

私は「偏らない」という仏教の教えが広がればいいのにと思っていたのですが、尊敬する僧侶から教えていただいたのは「知ること」と「愛すること」の実践でした。」

と書いてくださっています。

そして「排他的にならないと生きられない背景を知ろうとし、その結果相手を愛することができる」と続けてくれています。

恐れながら、小池さんに「知ることと愛すること」の話をしたのは、たぶん私であろうと思います。

須磨寺で対談した時に申し上げたことでした。

かたよらないということは大切だけれども、かたよってはいけない、排他的になってはいけないということにかたよってしまうと、かたよっている人、排他的な人を新たに排除してしまうことになるから気をつけないといけないと話をしたのでした。

「知ることと愛すること」というのは、私が考えたことではなくて、仏教では昔から智慧と慈悲の教えだと言われているところです。

智慧は知ることです。

仏さまの智慧というのは、一切智といってすべてを知ってくれる智慧なのです。

知ることは大事であります。

どんなに苦しいこと、辛いことがあったとしても、自分のことを知ってくれている人があれば、生きてゆけるものであります。

仏さまは私のことを知っていてくれると思うだけでも生きる力になります。

そして深く知れば、必ずそれは愛すること、慈悲につながるのです。

排他的な人というのも、何らかの事情があるのかもしれないのです。

排他的な言動や行動にならざるを得なかった事情が、その人にあるかもしれないのであります。

そんなことを、少し角度を変えてみることであります。

ものごとには、必ず何らかの原因があるものです。

今の結果には必ず原因があります。

この原因と結果を明らかにすることこそが仏教の智慧なのであります。

小池さんが、榎森さんのことについて、

著書で「唯一の才能は自分に自信が持てないこと」と書いておられたのも印象的でした」と書かれていました。

小池さんは、YouTubeで法話をなさるようになって、もう五年にもなるのです。

コロナ禍で始めた私などとは大きな違いであります。

お若いということもあって、始めた頃にはいろんなことを言われてきたと察します。

また動画などを公開していると、細かな間違いを指摘されることや、いろんなことを言われることもあると思います。

それでも、いつも明るく爽やかに活動される姿には敬意を表します。

最後の方に榎森さんが指摘されていたことについては考えさせられました。

少し引用させてもらいます。

「先ほど「偏らないことが大事」というお話がありましたが、間違った中立の取り方もあると思っていて。

いじめる側といじめられる側がいて、そこはいじめられる側につかないと暴力は止まらない。

でも、ユーチューブなどで暴力的なこと、人権的にどうなんだろうということに「これはあかんやろ」って発信すると、「偏っている」って言われるんです。

僕としては弱い側についているつもりです。」

という言葉であります。

公平な立場というのは難しいものです。

すでにかたよりがあるのなら、かたよらないように反対側に立つことも必要でありましょう。

その例として沖縄の問題を挙げておられます。

「沖縄戦のころから、本土防衛のために沖縄は犠牲になっているという構造は今も変わらずにある中で「私はどっちでもありません」と意見を述べないことは、果たして中立でしょうか。」

と指摘されます。

そして更に

「また、こうした基地の問題を「沖縄の問題」と表現するのも違うと思う。

沖縄に押しつけている「本土の問題」です」

というのであります。

毎年六月二十三日になると、修行僧達に「今日は何の日か」と問います。

毎年聞いているので、何年もいる修行僧は覚えていますが、今年の春に入ってきた修行僧達は答えることができません。

終戦の日や原爆の日に比べて認識されることが薄くなっていると感じています。

日本人であれば忘れてはならない日であります。

榎森さんが記事の最後に

「実は、LGBTQも差別も沖縄も、当事者がどうにかしないといけない問題じゃなくて、多数派のそうじゃない人たちがどう動くかが問題の本質だと思う。

そんな当事者意識を共有できるような世の中になっていけばいいと思います。」

という言葉に小池さんも深く共感されていました。

私もこれには考えさせられました。

中庸や中道ということは難しいことです。

かたよらないで真ん中を取ろうということではすまされないことであります。

常にこれでいいのだろうかと、いろんな角度から考え、いろんな方の教えを受けて、今よりも少しでもよく知ろうと努力してゆくしかないと思うのであります。

かたよらないことは難しいのであります。

 
横田南嶺

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