乾くそばから濡らされる
お寺の奥様方の勉強会での法話であります。
お寺の奥様方でも、特に熱心に仏教を学んでいらっしゃる方々の集まりであります。
ちょうど十年前にも円覚寺にお越しいただいて、研修会が催されて、私も法話をしたことを覚えています。
まだ最近のことのように思っていましたら、もう十年前だったのでした。
その当時の会に参加された方もいらっしゃって、懐かしく思いました。
この研修会も、昨年と一昨年とは、新型コロナウイルス感染症の蔓延によって休会とせざるを得なくなって実に三年ぶりの開催だったのでした。
それだけに喜びもまたひとしおというところでありましょう。
私の法話の前には、妙心寺派の教学部長の法話があるというので、それに間に合うように出掛けました。
妙心寺派の教学部長といえば、妙心寺派の伝道布教の頂点にいらっしゃる方であります。
長年布教師としてもご活躍になってこられた和尚様であります。
私も是非とも法話を拝聴したいと思って末席で勉強させていただきました。
感想はというと、「さすが」の一言であります。
無駄な言葉、余計な仕草、要らないものは一切無く、実に洗練された構成と内容で、法話というのはこうして行うのだと学ばせてもらいました。
高見順さんの「生」という詩を引用されていました。
手拭いは乾くそばから濡らされる
手拭いは濡れるそばから乾かんとする
という言葉であります。
深く感動しながら、何ページものノートを取っていました。
感動のうちに法話が終わって、気がついたら私の番になってしまいました。
大本山妙心寺の微妙殿という立派な建物に入って、厳かな雰囲気で、私は緊張してしまい、どうにも話の構成が前後してしまったのでした。
教学部長の洗練された法話に対して、なんとも雑ぱくな無駄の多い話になってしまって、いつものように終わった後は大いに後悔と反省をしていました。
今回の法話は、教学部長からあらかじめお題を与えられていました。
その題が、「向き合い、よりそう、衆生無辺誓願度」というものであります。
題を与えられて法話をするのはとても難しいものです。
まずはじめに私は、『般若経』の空思想について話ました。
とりわけ施しについてです。
『般若経』には、施しをするときには、施したという思いを抱いてはいけないと説かれているのです。
これが、向き合い、よりそうにも通じると思ったのであります。
よりそってあげようと、よりそうのだという思いを抱いては寄り添えないのではないかと話を始めました。
話の最後には、至道無難禅師の法語を引用しました。
「人は家を作りて居す。仏は人の身をやどとす。家のうちに亭主つねに居所あり、ほとけは人の心にすむなり。」
人は家を作って家に住んでいるように、仏さまは人の体を自分の住いとしている、仏さまは人の心に住んでいるということです。
それから「じひにものことやわらかなれは、心明なり。心明なれは、仏あらはるるなり。
心を明にせんとおもはは坐禅して如来にちかつくへし。」
慈しみと思いやりの心をもって、何ごとにも笑顔で穏やかに接していれば、心が明るくなってくる、心が明るくなってくると仏さまが現れてくる、心を明らかにしようと思うなら、坐禅して仏に近づくことだというのです。
坐禅でなくても手を合わせて拝むことも、写経でも、お掃除でもお料理でも皆同じだと思います。
そうして「たとへは火はものをこがす、水はものをうるほす。火は物をこがすと、其火はしらず、水は物をうるほすと、其水はしらず、ほとけはじひして、じひをしらず。」
火はものを焦がそうとは思っていませんし、水はものを濡らしてやろうとも意識しません。仏さまは慈悲をしようとおもっているのではありません、慈悲のことなど知らずにいるのだというのです。
それでいて、
「火のあたりはあつし。水のあたりはひややかなり。大道人のあたりへよれは、身の悪きゆるなり。これを道人といふ、おそろしき事なり。」
火のそばによれば自ずと暖かくなり、水のそばにいると自ずと涼しくなるものです、そのように慈悲の人のそばにいると自然と心が癒されてゆくものです。
この様な言葉を紹介して、肝心なのは、自分自身が心に静けさを持って、感謝の心で喜びに満ちて笑顔でいることであります。
森信三先生が、「いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。 そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。」(『森信三一日一言』)と仰っていますが、どんな苦しみがあろうと、辛いことがあろうと、この命をいただいているという感謝と喜びであります。
手拭いは乾くそばから濡らされる
手拭いは濡れるそばから乾かんとする
お互いの人生はこの繰り返しでありましょうが、それでもこの命をいただいている毎日なのであります。
こういう感謝と喜びの気持ちを根底に持っていれば、誰であろうと接した人は自ずと心が癒されるのではないかと話をしたのでした。
せっかく京都に来ましたので、その日の夜は花園禅塾によって、学生さん達に坐禅をするための種々の身体技法を教えて差し上げたのでした。
法話をしていろんな方に出会って少々疲れてはいましたが、体を動かすとむしろ疲れがとれて楽になるものです。
坐禅は苦行ではなく、しっかりと体を調えれば安楽に坐れるようになることを伝えてきました。
鎌倉に帰ってきて次の日は円覚寺派の住職研修会で、かくして暇無く日々が過ぎてゆくのであります。
横田南嶺