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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.06.09
今日の言葉

人は自己を変えることができるのか

「大きいことはいいことだ」。

子どものころ、テレビのコマーシャルでよく耳にしていた言葉です。

これは昭和四十二年のチョコレートの宣伝でありました。

昭和四十年代の高度経済成長期まっただ中のことです。

大量生産、大量販売、大量消費がよいこととされたのでした。

大きいことはいいことだと言っては更に、もっと大きいものを、そしてもっと便利なものを、もっと早いものをと追いかけてきたのでした。

その結果どうでしょうか。

今日のように閉塞感の強い時代になってしまいました。

マーケティングを研究している方からも、もはや便利さの追求は終わったと言われるようになりました。

大きいものよりも、より小さいものを見直されるようにもなってきました。

宣伝によってすり込まされるものというのがございます。

夏期講座の二日目の佐々木閑先生の講義は、そんなすり込み、すり込まされた世界の話から始まりました。

タイトルは「人は自己を変えることができるのか」です。

私たちは、よりよいものを求め、より快適なものを求めることをあたりまえのように思っています。

それはすり込まれた価値観で生きているのだというのです。

それはあたかも日々よりよいものを求めるのが幸せだという宗教に洗脳されているようなものだというのです。

虹の向こうに夢を求める生き方だというのです。

その宗教の説教がコマーシャルだというのです。

これがいい、こっちの方がいいと、買え買えといって宣伝するのであります。

資本主義の買え買え教だと佐々木先生は仰っていました。

テレビでは十五分おきにそんな宣伝が流れるのです。

果たしてそれでほんとうに幸せになれたのでありましょうか。

もっともそれで十分幸せだという人には仏教が必要ではないと先生は仰っていました。

仏教は無理に人に押しつけるものではないのです。

そのようによりよいものを追い求めることが人生の幸せではないと思う人が、仏教を求めるのであります。

この世の中には、そのように追い求めることが出来ない人がいるのが現実であります。

佐々木先生は欲求を追い求める人生が何をもたらすのかを示してくださいました。

夢を手に⼊れるための駆動力、人生のパワー、将来の希望などです。

逆に夢を追い求めることに執着してしまうと、マイナスの面にもなるのです。

それは執着による貪欲や怒り、憎しみ、嫉み、そしてうまくゆかなったときの劣等感などがあります。

また追い求める道がふさがれた時にはどうしようもない絶望感を味わうというのです。

しかし欲求を追い求める生き方をやめると、こんどは、それら怒りや憎しみ、嫉み、劣等感、絶望感からは解放されることになります。

ただし、佐々木先生は、欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もないのだと説かれました。

それぞれの生き方があるということです。

そして欲求を追い求める人生をやめると、⼼の平安が得られると説かれていました。
ではそのように欲求を追い求める人生をやめるにはどうしたらよいのかというと、この世の中のしくみを正しく知ることなのです。

仏教で説くのは、この世には絶対者も創造主もいないのであって、すべては原因と結果の関係性によって動いているという縁起の法則を知ることなのです。

夢を追い求める生き方の基盤となるものは「私」と「私のもの」が変わらず存在しているという思いなのであります。

そして、とりもなおさずそれを捨てることこそが安楽をもたらすというのが仏教の肝心なところであります。

そこで佐々木先生は四法印をわかりやすく説いてくださいました。

「諸行無常」、すべては常ではない、うつりかわるのだということです。

「諸法無我」、世の中に「私」という絶対存在はないということです。

「涅槃寂静」、究極の安楽は,欲望の充足ではなく,欲望の消滅であるということです。

そして「一切皆苦」、生きることは苦しみであるということです。

砂の城の喩えが印象に残りました。

子どもが海辺で砂の城を作っているのです。

子どもは、海辺で作った砂の城が、波で流されても、悲しんだりはしません。

なぜなら、それは遊びであり、砂の城なんてすぐに壊れるものであり、永遠ではないと知っているからです。

知った上で遊んでいるだけなのです。

砂の城が自分のものだなどと思ってはいないのです。

ところが大人は自分の家が流されると嘆き悲しみ、苦しむのです。

それは、その家が自分のものであり、ずっと自分のものであり続けると思っているからなのです。

そうしてみると、苦しみを生み出すのは自我であり、自我を無くすことが苦しみの消滅にほかならないということになるのであります。

そのように自分中心の営みが無くなると静けさという安楽が手に入るのであります。

こういうことを単に頭で理解するだけでなく、日常の一挙手一投足の動きが、その自我を無くす方向へと向かってゆくように努力することが修行なのだと佐々木先生は説いてくださいました。

最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。

下條信輔先生の説を紹介して、私という固まった、確固としたものはないというのです。

たとえば記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのは、ほとんど後付けで出来ているというのです。

自分の都合のよいように作り替えているのだそうです。

これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました。

実に仏教の究極の真理を佐々木先生の熟練した説き方で、あっという間に終わった一時間でした。

お昼ご飯をご一緒にいただいたあと、佐々木先生ご夫妻を国宝舎利殿にご案内しました。

佐々木先生の奥様は建築の学者でいらっしゃるので、初めて見る舎利殿にとても感激されていました。

楽しみながら、深い仏教の真理に触れることができた半日でありました。

人は自己を変えることができるのであります。

 
横田南嶺

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