真理は難しくないというけれども
『信心銘』は三祖僧璨禅師の書かれた書物であります。
百四十六句、五百八十四字より成るのでありますが、三日間でまだ十六句、六十四文字しか講義できていません。
冒頭の句が
「至道無難、唯揀択を嫌う。只憎愛無ければ、洞然として明白なり」
というのであります。
至道というのは、道に至るということではなく、究極の道であります。
仏道の究極は、なにも難しいことはないというのです。
ただえり好みをしないことだといいます。
ただ憎愛がなければ、からっとして真理ははっきり現れているという意味であります。
憎愛というのは、愛憎といっても同じであります。
「愛憎」を漢和辞典で調べてみると、
「好もしく思ったり憎んだりする感情。愛と憎しみ。かわいがることと、憎むこと。」
という意味がございます。
『広辞苑』では、「愛憎」「憎愛」も共に「愛することと、憎むこと」と解説されています。
えり好みをしないというのは、区別しない、差別しないということでしょう。
区別し差別することがなければ、愛憎も憎愛も起こりようがないのであります。
鈴木大拙先生は、『禅の思想』のなかでこの『信心銘』について解説されています。
「至道無難、唯だ棟択 〈選択〉を嫌う。但だ憎愛莫くんば、洞然〈からり〉として明白なり。」というところには、
「シナでは、最高の真理または無上絶対の実在を大道または至道と云った。
僧璨に従えばこの至道は何も六箇敷いものでない、唯嫌うところとは、彼此と云って択びとりをすることである。
即ち分別計較心をはたらかすことである。
このはたらきから憎愛の念が出て、心そのものが暈ってくる。
心が有心の心になると、もともと洞然として何等のさわりものもなく明白をきわめたものが、見えなくなる。
分別を去れ、憎愛を抱くな、すると本来の明白性が自ら現われる。」
と説いてくださっています。
なかなか難しいことはなにもない、分別を去ればいいのだと言われても、これが難しいものであります。
分けるということには、自分というものが中心になくては成り立ちません。
自分にとって都合がよいか、都合がわるいかと分別するのです。
しかし、このはたらきはお互いの生命を維持するためには、なくてはならないものでもあります。
生きているためには免疫が必要です。
免疫というはたらきがなければ、生きられません。
免疫というのは、まず自己と非自己を見分けることから始まります。
そしてもしも自己の中に自己でないもの、即ち非自己が侵入してきた、入って来たときには、その非自己を認識して排除して、自己の全体性を守るはたらきなのであります。
生きることにはこの免疫が不可欠であります。
私たちが、いくら口で平和が大事だ、多様性が大事だ、お互いを認め合うことだ、みんな仲よくすることだと説いていても、新型コロナウイルスがはやってくるとみな一所懸命に手を洗うのです、マスクをするのです。
免疫を得るために、ワクチンを打つのであります。
自己と非自己を分けてしまうところにすでに迷いの根本があります。
しかし、自己と非自己とで何が違うのでありましょうか。
もともと同じなはずですが、自己を非自己とを分けて考えてしまうのであります。分けて考えると、比べることが起きてきます。
免疫だけならば、命を維持するためのやむをえないものですが、人間は必要以上にものを求めたり、過剰に反応してしまったりします。
えり好みも一層強くなってしまって、はてはお互いを傷つけたりしてしまうのです。
実際にえり好みをしない人というのはいらっしゃいます。
たとえば金澤翔子さんの様な方であります。
以前にも紹介した話ですが、
金澤翔子さんは虫を殺せないのだそうです。
どんなに小さな虫も、蚊さえも殺さないというのです。
あるとき翔子さんの腕に小さな羽の付いた虫が飛んできて、慌てて瞬間的に払いのけたら、その虫が地に落ちて微動だにしなくなってしまいました。
すると翔子さんは、背中を丸めて「ごめんね、ごめんね」と謝っているのだそうです。
金澤泰子さんからうかがったことです。
泰子さんは、その虫は死んだふりをしているのだろうと思われたのですが、翔子さんは、「涙ぐんで蘇生を願い、深く謝る」というのであります。
『般若心経』に白隠禅師が注釈された『毒語心経』という書物があります。
そのなかに、
「是非憎愛、総に拈抛せば、汝に許す生身の観自在」という言葉があります。
是非を分ける、えり好みをする、憎愛、それらをすべて投げ捨てたならば、あなたは生身の観音さまだという意味であります。
『信心銘』を講義したなかに、
違順相争う、是れを心病と為す
という言葉がでてきます。
「違順」というのは「違」は違い、「順」は従うことです。
心にかなうことと、心に違うことです。
順境と逆境といっても同じであります。
順境とは、『広辞苑』で調べてみると、「万事が都合よく運んでいる境遇。恵まれた幸せな境遇」と解説されています。
都合良くというのは、あくまでも自分にとって都合がいいということなのです。
恵まれたというのは、自分の欲望が恵まれて満たされた状態なのであります。
逆境はというと、「思うようにならず苦労の多い境遇」だと説明されています。
これも自分の思うようにならない状態であります。
人間は順境になれば喜び、逆境になれば打つひしがれるのであります。
そのように思うようにゆく、思うようにゆかないといっては、考えなくてもよいことをあれやこれやと考え、そうして心の中で争うのであります。
常に心の中で、順境になると喜び、逆境になると腹を立てて、波風を起こし続けているのであります。
これを「心病」、心の病と言うのであり、心の健康な状態ではありません。
その心の病がつのると、心身共に病んでしまうのであります。
そこで坐禅をするのであります。
体と呼吸と心を調えるのであります。
体をまっすぐに腰骨を立てます。
大地に身を預けて垂直に腰を立てるのであります。
そうしますと、自然と下腹に重心が定まります。
頭を中心にしていては、ますます心の病はつのるのであります。
究極の道は難しくないというけれども、やはり修練しないとどうにもなりません。
横田南嶺