危機を乗り越える
岩波書店の『仏教辞典』によると、
「仏教教団あるいは仏教徒の一部が、国家権力などにより、弾圧や迫害を受けたとき、被害を受けた側からいう語。
つまり仏法の受難をさし、キリスト教などにおける受難や殉教に通ずる。
類語とされる破仏・廃仏・滅仏・廃釈などは、どちらかといえば、弾圧ないし迫害をする側が用いた語。」
と書かれています。
では「廃仏」はというと、
「国王や政治権力が仏教を弾圧し、廃止すること。
<破仏>や<排仏>ともいわれ、また仏教の側からは<法難>とも呼ばれる。」
と書かれています。
中国では「三武一宗の法難」として知られています。
こちらも『仏教辞典』には、
「中国における四王朝の四人の皇帝による廃仏を総称する語。
仏教が中国社会で勢力を拡大させるにつれ、何度か国家権力による迫害をうけたが、なかでも、
1)北魏の太武帝(たいぶてい)(在位423―452)、
2)北周の武帝(ぶてい)(在位560―578)、
3)唐の武宗(ぶそう)(在位840―846)の三武と、
4)後周の世宗(せいそう)(在位954―959)の一宗、
つまり<三武一宗>の治下における弾圧が激甚を極めたので、弾圧をうけた仏教側が、これらの廃仏を一括して<三武一宗の法難>と呼ぶ。」
というのであります。
禅宗に大きく関わっているのが、この中で会昌の法難なのであります。
小川隆先生の新著『禅僧たちの生涯』には、「会昌の破仏」という一章があって、詳細に書かれています。
小川先生の著書によれば、四六〇〇あまりの寺が壊され、二十六万五百人の僧尼が還俗させられ、更に四万あまりの小院の破壊、数千万傾の田畑の没収などがあったということです。
儒学者であった韓愈が、仏教や道教について、仏教・道教の出家者を人の世に返せ、仏教・道教の書物を焼きはらえ、仏教・道教の寺廟を人の住いに改めよと厳しく言っていたことが、仏教のみに対して実現されたのでした。
そんな大弾圧だったのですが、禅僧たちは意外にも平気だったというのです。
小川先生の著書には、次のように書かれています。引用させていただきます。
「破仏によって受けた仏教界の被害の大きさ、苦難の深刻さ、それを示す史料を挙げていけばキリがありません。
しかし、その一方で、既存の仏教教団の衰退とは裏腹に、禅宗だけはこの破仏を機にいっそう存在感を増していったとしばしば説かれます。」
というのであります。
そして胡適先生が、
「破滅的で荒々しいこの迫害は、かえって禅僧たちの威信を高からしめる効果を生んだ如くである。
彼らは巨大な富にも壮麗な建築にも、また大寺院・大僧院の奢侈にも、いっさい頼る必要がなかったからである。
彼らは実は、仏典にさえ依存する必要がなく、そして少なくとも一部の禅僧たちは、理論的に、さらには実行においてさえ、偶像破壊的であったのである」
と言っている言葉を載せておられます。
(『中国の禅ーその歴史と方法論』」、『駒澤大学禅研究所年報』第11号、二〇〇〇年、頁九六上)
そして二人の禅僧のことを小川先生は説かれています。
一人は潙山霊祐禅師であります。
潙山禅師は、破仏で還俗を迫られると、事もなげに俗人の帽子と衣服を身につけたというのです。
破仏が終わって、また再び仏教が認められるようになって、剃髪するように薦められると、なんと笑みを浮かべつつ、
「仏法が私の髪やひげと何か関係があるとお考えか?」
と言ったというのであります。
実に姿形に全くとらわれることのない禅僧の面目躍如たるところです。
それでも再三薦められて、また笑みを浮かべつつ受け入れたというのです。
巌頭和尚は、還俗させられて貧しい農夫の姿で、旧知の尼寺を訪ねたという話が載っています。
ボロボロのシャツに草で編んだ帽子をかぶっていました。
台所でご飯を食べようとするのを見つかってしまい、尼さんが杖をもって飛んできました。
巌頭和尚は帽子のあごひもをほどいて、顔を見せました。
尼さんが巌頭和尚だとわかって驚いたのでした。
逆に尼さんが巌頭和尚に一喝されたという話です。
また巌頭和尚は湖で舟の渡し守になっていたということも書かれています。
湖の両岸にそれぞれ一枚の板を具え、わたりたい者はそれを打つのでした。
板を打つと、巌頭和尚が「誰だ」と問います。
「あちらへわたりたいのです」というと、そのまま舟をこいでいったというのです。
これもまた何ものにもこだわらぬ禅僧の姿でありましょう。
会昌の破仏の前の頃、唐代の禅僧たちのところに実に何百もの禅僧が集まって修行していました。
黄檗には七百の高僧がいたと言われています。
しかし会昌の破仏のあと、世に出た臨済禅師や趙州和尚の頃は、それほどではなかったようであります。
趙州和尚が会昌の破仏にあったのは、六十五歳の頃、まだ諸方を老雲水として行脚していた頃であります。
趙州和尚が八十歳で住した観音院の様子などは、十二時の歌からみても寂れた様子でありました。
それでも悠然と暮らしていたのでした。
日本では明治維新の頃に廃仏毀釈がありました。
これは神仏分離政策から始まりました。
神仏分離は、1868年(明治1)3月から諸社に対して下された、社僧の還俗強制、仏像を神体とすることの禁止、社頭からの仏具の除去、神職に対する神葬の強要、などを内容とする一連の指令を言います
この神仏分離令は全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こしたのでした。
その結果、多数の文化財が破壊され膨大な廃寺が生じたのでした。
後に真宗を中心とする仏教界の反対を受けて、政府も沈静化を目指したというものです。
いろんな困難や危機を乗り越えて、今日まで仏教が伝わっているのであります。
今もまた、寺離れや寺院消滅などという言葉も耳にする時代であります。
仏教の基本を大切にして、禅僧の本来の姿を忘れずに、乗り切ってゆきたいものであります。
『禅門宝訓』に白雲禅師の言葉として、
「白雲曰く、道の隆替豈に常ならんや。人の之を弘むるに在るのみ。故に曰く、操るときんば存し、捨つるときんば亡ずと。然るに道、人を去るに非ず、人、道を去るなり。」とあります。
仏道が栄えるのもすたれるのも、どうして同じであろうか。いつもずっと栄えるということもないし、また逆にすたれたままということもない。
仏道が栄えるのもすたれるのも、それはひとえにその人が仏道を弘めるかどうかにかかっているのです。
仏道は、我々の実践し行っていくところにあるし、行わないとなくなってしまうのです。
仏道が人を見捨てるのでない、人が仏道を見捨てるのだと言っています。
肝に銘ずべきであります。
横田南嶺