こころひとつで – 明るい方へ –
かれこれ、今年で四回目になります。
大興寺さまの法話会は、古くからあって、京都清水寺の大西良慶和上や、松原泰道先生などもお勤めになっておられました。
今も清水寺の森清範和上が毎年お越しになっているようであります。
また曹洞宗の青山俊董老師もお見えくださっているのであります。
そのように現代の仏教界を代表する方がお見えになっている会に、私如きが参るのは実におこがましいのでありますが、お招きいただいているのです。
揖斐川には、西国三十三ヵ所札所の最後の三十三番華厳寺がございます。
昨年大興寺さまの法話の前に、華厳寺さまをお参りさせていただきました。
すばらしいお寺で感動しましたものですから、今年も大興寺さまの法話の前に華厳寺さまにお参りいたしました。
私は紀州熊野で生まれ育ちましたので、西国三十三ヵ所札所の第一番である那智山青岸渡寺さまが近くだったので、よくお参りしていました。
西国三十三ヵ所霊場は、和歌山県からはじまり、大阪、京都、兵庫、奈良の近畿二府四県と、岐阜県に点在しています。
巡礼道は、約千キロにもわたるのであります。
車のない時代には、この長い道のりを徒歩でお参りしたのでありましょう。
そうして最後に三十三番札所の岐阜県揖斐川の華厳寺にたどり着いたときの感慨というものは、今の私たちにははかりしれないものであります。
また三十三番最後の札所だけあって、実に素晴らしい霊山なのであります。
まず長い参道が素晴らしく、参道の終わりに立派な楼門がございます。
楼門を入るとまた参道が続き、諸堂が並んでいます。
その奥に大きな階段を上るとご本堂がそびえています。
この本堂に前に立った時にはどれほどの感動だっただろうかとしのびます。
本尊さまは十一面観音さま、御詠歌は
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともし火も 消えぬなりけり
というのが現在、
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
というのが過去
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲
というのが未来と、過去現在未来の三つの和歌がございます。
今も、「仏のしるしありければ」と感じるお寺であります。
昨年お参りしたのも四月半ばでありましたが、昨年はコロナの影響が強く、門前のお店もほとんど閉まっていて、ひっそりしていました。
今年もまだコロナは終わっていないものの、お店も開かれて、多くの方がお参りになっていました。
そうして、谷汲山華厳寺の観音さまにお参りしてから、大興寺さまに赴きました。
今年の演題は、
こころひとつでー明るい方へー
と致しました。
こころひとつの持ちようで、明るい方へと変わることができるということを伝えたいと思ったのでした。
法話は九十分の長いものであります。
わかりやすくと心がけるものの、やはりご立派な方々の法話を聞いておられる方々なので、少し深い禅の話も盛り込むように心がけました。
まずはじめに、
この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。―弱い樹木が風に倒されるように。 (『ダンマパダ』七)
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。―岩山が風にゆるがないように。(『ダンマパダ』八)
という『法句経』にあるふたつの言葉を紹介しました。
桜の花は散ったものの、折から新緑がきれいで、爽やかな風が吹いているときでありました。
しかしながら、ただきれいなものにばかり心惹かれていては、欲望、煩悩の風に振り回されることになりかねません。
まず第一には、心をしっかり制御することを学ぶ必要があると話をしました。
よく心を調えることであります。
「この世を不浄である」とみることなど、あまり好ましくないと思うかもしれません。
しかし、仏教の基本はこの世は不浄であり、無常であり、その中に生きることは苦しみであると説くのであります。
きれいだという一面しか見ていないと、弱いものであります。
たとえば、東日本大震災の折に津波の惨状などを思い出すと、とても清らかとは言えないのであります。
大震災ならずとも毎年のように襲ってくる大きな台風によって、洪水、河川の氾濫があって、床上浸水などしてしまうと、不浄であると言わざるを得ないのであります。
世の中は、そのような一面もあるのだと心得ておいた方がよいのであります。
それから無常であります。
無常であることはよくお話することであります。
お寺にお参りくださる方に、私などはいつもの「少しも変わりませんね、お元気そうでなによりです」と挨拶しています。
しかしながら、実際は、変わっているのです。
しかも時々刻々移り変っているのです。
そのように見て、見たり聞いたり、味わったりする感覚に振り回されないように心をしっかりと調えることが大事なのです。
そのことが仏教の基本であります。
そのように無常であることをしっかり見据えて、心を調えたならば、
一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。(『ダンマパダ』八一)
とあるように、世の中にどんな風が吹こうと、揺れることはなくなるのであります。
どっしりと坐っていることができます。
そのようにして、どっしり坐って、いつも静かに穏やかにほほえんで暮らすことができるようになると、
花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀【せんだん】もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。 (『ダンマパダ』五四)
というお釈迦さまのお言葉のように、よき人の香りは、自然とまわりへと香ってゆくのであります。
大乗仏教の経典である『法華経』には、
栴檀の香風、衆の心を悦可す。是の因縁を以て 地皆厳浄なり。(『法華経』)
とありますように、栴檀という香木のようによき香りのする風が、まわりの人々の心を穏やかにして、喜ばせることができるのであります。
実にお釈迦さまの教えは、この香風のようにインドに広まり、やがて更に中国、朝鮮、日本と伝わり、今や世界に広まっているのであります。
最後に坂村真民先生の詩を紹介しました。
仏三相
風も光も仏のいのち
花も日月も仏のすがた
雨も嵐も仏のこころ(坂村真民)
であります。
今こうして吹いている風が仏さまのいのちそのものなのであります。
吹き渡る風がほとけさまのいのちなのです。
そして咲く花も、上る日も、満月もみな仏さまのお姿なのです。
雨が降るのも嵐が吹くのも、これも私たちを鍛えてくださる仏さまのみこころなのです。
そんなことを受け止めておいて
心一つで
生きていることが
楽しくならねばならぬ
たとえ貧乏していても
ベッドに寝たきりでも
心一つで
楽しくなれるものだ
光が射してくるものだ
人々の幸せのために
湧出してこられた
仏さま方が
手を差しのべていられるのだ
だからしっかりと
おん手を握って
楽しく生きてゆこう
という詩の心で生きてゆきたいのであります。
最後の甲斐和里子先生の和歌で法話を終えました。
大興寺さまで私の為に用意してくださった控え室に、甲斐和里子先生の直筆の和歌が飾ってあったのでした。
岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる
という和歌であります。
大興寺さまの前のご住職が、甲斐和里子先生とご縁があったというのです。
甲斐和里子先生の直筆を拝見したので、この和歌を最後にご紹介して法話を終えたのでありました。
いろんなところで話をさせてもらいますがやはりお寺での法話というのはやりやすいものです。
特に大興寺さまのようにいつも法話会を開いているところは、皆さまも聞き慣れているので、こちらも楽に話をさせてもらいました。
華厳寺の観音さまにお参りして、大興寺さまで法話をして有り難い揖斐川の旅でありました。
横田南嶺