世界は変わる
私が担当しているのは「禅とこころ」という講座であります。
学長の講座なのですが、いろんな方が講義をするのであります。
私は、前期三回、後期三回、出講するようにしています。
早いもので、もう四年講義してきて、今期で五年目になるのであります。
花園大学は、今年創立百五十年を迎えます。
百五十年の歴史のある大学というとそう多くはないと思います。
もともとは臨済の禅を学ぶ学校でありました。
明治五年(1872)に妙心寺山内に創建された「般若林」がその始まりです。
臨済禅の心を建学の精神としています。
そこで、授業でも一番はじめに建学の精神について触れました。
「本学の建学の精神は「禅的仏教精神による人格の陶冶」です。」
という一文を説明しました。
「禅的仏教精神による人格の陶冶」と言われてもわかりにくいものです。
まず「陶冶」がよくわかりません。あまり使わない言葉です。
いつもの『広辞苑』で調べてみますと、
「(陶器を造ることと、鋳物を鋳ることから)人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること。人材を薫陶養成すること」という説明があり、「人格の陶冶」という用例があります。
「人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること」という言葉は、この「人間の持って生まれた性質」を仏心や仏性のことだとすれば、そのまま仏道にあてはまります。
「人間の持って生まれた性質」というのは仏心ひとつだというのが、禅の教えであります。
更に「建学の精神」については、
「その目的は臨済宗の宗祖である臨済禅師が「随処に主と作れば、立処皆な真なり」と言われるように、どの様な状況であっても主体的に行動できる、自立性・自律性を養成することです。
換言すればそれは、一人の人間としてこの世に生を受けたことの意味や自己の尊厳を自覚し、「自分の生活も他人の生活も大切にする」ということに他なりません。
そのことを単なる知識として獲得するだけでなく、大学生活を通じて実践的に体験することが肝心です。
そのためには「坐禅」を通じて自己を見つめる時間の習慣化と、個別の学生支援や教育支援による直接的な指導が不可欠です。」
という素晴らしい精神なのであります。
「一人の人間としてこの世に生を受けたことの意味や自己の尊厳を自覚」するということは、仏道の中核であります。
その自己の尊厳を自覚できたならば、おのずと「自分の生活も他人の生活も大切にする」ようになるのであります。
そのことを自覚するために坐禅があるのです。
花園大学の卒業生に、ソフトバンク社長の宮川潤一さんがいらっしゃいます。
数年前に宮川さんが副社長だったときに対談したことがあります。
私が、花園大学で四年学ばれて、一番印象に残っている講義はどのようなものでしたかと聞くと、宮川さんは「それは坐禅の時間でした」と即答されました。
花園大学には、二百名ほどが坐禅できる、大きく立派な坐禅堂があるのです。
坐禅するということは素晴らしいものです。
さて、坐禅して何に目覚めるのか、授業では「空の世界」について語りました。
今期の授業では「般若心経に学ぶ」と題して、六回で「般若心経」を講義しようと思っているのです。
いつもこの「禅とこころ」の授業では、必ず授業の始まりにみんなで般若心経を読誦します。
般若心経を読んで、五分間椅子に坐ったまま坐禅をします。
それから講義を始めるのです。
過去四年間もそのように毎回般若心経を読んで来ました。
そこで、この般若心経をただ読むだけではなく、どういう内容なのかを講義してみようと思ったのでした。
私は今まで般若心経を講義したことは一度もありませんでした。
あえて講義しないようにしてきたといってもよろしいでしょう。
大学では、般若経典を専門に学びましたので、般若心経についてもかなり勉強してきたつもりではあります。
しかしながら、いくら学んでも、空について、講義をすることは至難であると思っていました。
空というのは、言葉で説明して、こんなものだと概念で想像されても、まず見当違いになってしまいます。
むしろ、言語化もできない、説明のしようのないものだということがわかっていたのであります。
空については、説けばすでに空でなくなるということがあるのです。
しかし、このたび意を決して講義をすることにしました。
きっかけは、いつも懇意にしている、細川晋輔さんと小池陽人さんが、YouTubeで般若心経について語り合っているのを拝聴したことがあります。
それから、もうひとつ、今の時代に若者たちが抱えている閉塞感があります。
今の世の中に、自分なんか認められない、自分なんてこんなものだと思いこんでしまったり、あるいはSNSなどで誹謗中傷されて、自信を失ったりすることをよく聞きます。
そういう時には、自己及びこの世界は空であるとみることは大きな救いになると思ったのです。
学生さんたちにいきなり世界は空であると言ってもピンとこないでしょう。
何を言っているのかわからないままになってしまいます。
そうなると眠くなるか、別のことをしたくなります。
この講義で心がけたことのひとつは、学生さんたちが眠くならないような講義をしようということです。
そこで、世界は変わると思いますか、変わらないと思いますかという質問から始めました。
世界が変わると思って生きるのと、変わらないと思って生きるのでは大きな違いがでてきます。
花園大学では『私が変われば世界が変わる』という題の本を出してます。
私が変われば世界が変わるのです。
そう言っても、変わらないよと思う方も多いはずです。
自分が変わったからといって、戦争がなくなるわけでもありませんし、大学では折から校舎新築の工事中でしたので、そとの音がなくなるわけでもありません。
そこでこんな川柳を示しました。
渋滞がうれしい彼女送る道
というのです。
渋滞というのは苦痛です。
はやく現地に着きたいものです。
時間でも決められていれば、車の中でやきもきします。
しかし、これが好きな人と一緒に乗っているならば、その時間は幸せな時なのです。
このままずっと渋滞でいて欲しいくらいでしょう。
この世界も自己も条件によって変化するものです。
変化しないものはないというのが、お釈迦さまの教えの根本であります。
変化するということを「無常」といい、変化しないものはないというのを「無我」と言います。
この「無常」と「無我」とについて九十分語りました。
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
ダンマパダの二七七番と二七九番です。
こういう真理を知らないことを「無明」と言います。
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」というスッタニパータ七二八番の言葉を紹介しました。
正しい智慧で真理を知ることによって、苦しみから解放されること、逆に正しく知らないことによって苦しみを生み出すということを話しました。
VRやマトリックスなど、いろんな譬え話をたくさん盛り込んで話をしましたので、幸いに第一回の講義では、眠る学生さんはいなかったのでした。
この講義は花園大学のYouTubeで公開される予定ですので、ご興味があればご覧ください。
世界は変わる、この自己も変わる、そう思ってわくわくしながら学んでいきたいものです。
横田南嶺