一人一人が別の世界にいる
岩波書店の『仏教辞典』によれば、
「唯識派が説く考えで、心を離れて事物は存在しないということの証明のために用いる実例。
<一処四見><一境四見>ともいう。
人間が水と見るものを、人間と異なった生物が見ると別の異なったものに見えるという考えである。
たとえば、人間が水や浪と見るものを、天人は瑠璃(るり)でできた大地、地獄人は膿で充満した河、魚は家宅や道路としてそれぞれ見るという。
このように、見る側のあり方によって同一の事物もその様相を変えるから、心を離れて事物は実在しないと唯識派は主張する。」
というのです。
唯識派というのは、仏教の中の一派であります。
これも同じく岩波の『仏教辞典』によれば、
「あらゆる存在はただ<識>、すなわち<心>にすぎないとする見解。
般若経の空(くう)の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする教えである。」
と解説されています。
花園大学で、学生さんたちに『般若心経』を講義しようと思って、あれこれと工夫しています。
私が受け持つ講座は、仏教学を学ぶ人だけのものではありません。
歴史や社会福祉を学ぶ方も多いのです。
ですから仏教の専門的な講義になってもよくないと思っています。
建学の精神が、「禅的仏教精神による人格の陶冶」であるというように、あくまでも禅的な考え方を示して、各自の人格の向上に役立ててもらいたいという思いであります。
般若心経的な考え、空という考えを学んで欲しいという気持ちなのです。
空の思想というのは、なかなか難しいものです。
そこでまずは、無常や無我という仏教の基本となる考えを話してきました。
それから唯識的なものの見方であります。
私たちは皆同じ世界に住んでいて同じものを見て同じものを聞いていると思っていますが、これは思い込みであります。
唯識の専門家である仏教学者の横山紘一先生はよく「一人一宇宙」ということを説かれています。
同じ花を見ているようでも、見ている人によって、それぞれ違って見えるのであります。
同じ桜の花を見ても、落ち込んでいる人には灰色にしか見えないでしょう。
希望に燃えている人には、光り耀いて見えるでしょう。
円覚寺も桜の花の咲く頃に、新しい修行僧が入門してきます。
これから修行に入る者には、桜の花など咲いていても目に入らないものです。
ようやく一年くらい経ってから、ああ桜の花が咲いていたのだと気がつくくらいです。
大学の講義の折にも、みんな違ったものを見て、違った話を聞いているのですと伝えました。
そんなことを言われても学生さんたちは怪訝な表情です。
では、その証拠に今日の授業の風景を絵に描いてくださいと言えば、みんな違った絵を描くのです。
お坊さんに興味のない人は、今日私がどんな姿をしているなど、眼中にはないのです。
逆にお坊さんに興味のある人、私に関心を持っている人は、どんな色の衣を来ているか、いろんなところに目がゆきます。
建物、建築に興味のある人は、この建物の構造や建築部材などを見ているでしょう。
またどんな話だったか書いてもらえば、みんな全然異なるのです。
そういうことから、一人一人それぞれ別のものを見て、別のものを聞いているのです。
ですから横山先生の言われる通り、一人一宇宙を生きているのであります。
立川武蔵先生が『般若心経の新しい読み方』のなかで、
「仏教は宇宙というものを初めから考えないで、ともかく自分の身体を中心にして、世界でも自分一人の人間が自分の感覚器官で見渡せる世界、周囲的な世界のことを考える。仏教が相手にする世界というのはそういうものなのです。あくまで周囲世界です。」
と説かれている通りなのです。
そういう世界であり、宇宙を説いていますので、私が変われば世界が変わるのであります。
変わるということは、無常であることです。
この無常ということも見ることが難しいものです。
まず私たちは昨日と同じ自分がいると思っています。
ところが同じなどいうことはないのです。
この建物でもそうです。
一日一日変化しています。いや一瞬一瞬変わっているのです。
一瞬一瞬朽ちているのです。
刹那滅という言葉があります。
一刹那のみ存在して滅するのだという意味です。
刹那も仏教の説く時間のことで、「きわめて短い時間。瞬間。最も短い時間の単位」なのです。
指を一回弾くあいだに六十五刹那あるという説や、七十五分の一秒に相当するとする説などもあります。
そんな短い間に生滅を繰り返しているのです。
朽ちつつあるのです。
この建物でも三十年前と今ではずいぶん違っているでしょう。
また今と五十年後は異なるでしょう。
しかし、その変化は五十年が経って突然変わるのではなく、毎日毎日、いや一瞬一瞬移り変っているのです。
そうすると法句経の冒頭にあります、
一、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二 、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。
という言葉のように、自分の思いや行動で自分や世界を変えてゆくこともできるのです。
横田南嶺