環境とは自己 – ハチドリのひとしずく –
日曜説教というのは、私が一番力を入れておこなっている法話であります。
一月がかりで準備して原稿を作り、その直前まで調べ直したりして、本番に臨みます。
それだけにわずか一時間足らずの法話なのですが、終わった後はぐったりしてしまうものであります。
そんな中を午後も坐禅と尺八を頑張ろうというのですから、少々たいへんではありました。
もっとも撮影の方もたいへんであります。
いつも午前九時から日曜説教のライブ配信を行うのに、前日から機材を搬入し、当時は午前七時頃から来ては支度をしてくれています。
日曜説教の終わった後には引き続き次の準備で、ほぼ休み無しであります。
それだけ入念に準備していてもライブというのはいろんなことが起きるものであります。
不測の事態というのがあるものです。
オンラインというのは便利な一面、たいへんな一面もあるものです。
それでも一人でも新たなご縁がむすばれてくれたら何よりだと思って行っているのであります。
先日対談した阪部賢六郎君とのご縁などもこうしたオンラインでの配信があってこそ、むすばれたご縁なのであります。
その第二日曜日の法話では、空の世界について話をしました。
すべてはつながりあっているという世界であります。
他人というのはない、みんなひとつにつながっているという空の世界を語ったのでした。
午後からの環境の問題についても、これは通じるところがあります。
工藤煉山さんとは、昨年からご縁であります。
これもオンラインのおかげなのでした。
昨年九月に建長寺でZen2.0という企画が行われていて、オンラインだったので私も拝聴させてもらうことができました。
そこで工藤さんのことを知ったのでした。
工藤さんは、尺八を吹くのにまず竹林に入って、竹を取るところから始めるのだという話を聞いたのでした。
奇特な方だなというくらいに聞いていたのですが、工藤さんは、竹を取ろうと竹林に入ると、竹は工藤さんのことを拒むのだというのです。
竹にしてみれば、命を奪われるのですから、当然といえるかもしれません。
しかし、そのように感じる人は稀でしょう。
竹林が、自分を拒んでいると感じるというところがまずすばらしいのです。
そして、竹の命を取る、いただくという思いがないと、尺八の呼吸ができないということを仰っていたのでした。
この一言を聞いて感動したのでした。
この方は素晴らしいと思ったのでした。
対談の冒頭にもこんな話をしました。
「そんな話を聞いて素晴らしい方だと思って実際にお会いしてみたら、そうではなかった」と私は申し上げました。
一瞬会場がシーンとしてしまいました。工藤さんも怪訝な表情をなさいました。
そこでそのあとすぐに私は、「思った以上に素晴らしかったのです」と申し上げたのでした。
そんな話からお互いの対談が始まりました。
まず工藤さんが、私にどうして環境のことを考えるようになったのか、私にとって環境とは何なのかと尋ねてくれました。
私は、そこでまず一言、
「環境とは自己です」と答えました。
禅は自己を究明する道であります。
しかし自己はどこにあるのか、この体の中にあるのか、この体の中を探しても見当たらないのであります。
そもそもどこからが自己で、どこからが自己でないのか、境目がはっきりしませんと申し上げました。
多くの方は、自分の皮膚の内側が自己で、その外側が自己ではないと思っているでしょう。
しかし、この自己は外の空気と離れて別にあるわけではありません。
皮膚のところで切り取って、周りの空気をなくしたら、一瞬たりとも生きていられないのです。
大地、地球がないと自己は存在しません。
空中に浮いているわけにはゆかないのです。
常にどこでもこの地球とつながっているのです。
坐禅して、いくら自分の体だけ調えようとしても、空気が汚染されていたら汚れた空気を吸うだけになってしまいます。
この環境ひっくるめて自己なのです。
この環境まるごと調えてゆくことをしなければ、自己だけをとり出して調えることはあり得ないのですと申し上げました。
その環境にさまざまな問題が起こっているということは、この自己に様々な問題が起こっているのと同じなのであります。
工藤さんは、産業革命以降、一点五度プラスになると、様々な自然災害が起こるということを指摘されました。
私など修行道場で暮らしていると、冬が寒いので、暖かくなっていいように思いますが、そんな問題ではないのです。
近年の大型台風の被害などもその影響ではないかと言われていました。
看過できないことです。
それから、江戸時代の完全循環型社会について話合いました。
たしかに江戸の暮らしには素晴らしい智慧がありました。
そうかといって、今から江戸時代の暮らしに戻ることは無理であります。
待ったなしの環境問題にどう取り組むのか、工藤さんは「ハチドリのひとしずく」という本を紹介してくれました。
これは南米に伝わる古い話だそうです。
どんな話か一部を引用して紹介します。
森が燃えていました。
森の生きものたちは
われ先にと
逃げて
いきました。
でもクリキンディという名の
ハチドリだけは
いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちは
「そんなことをして
いったい何になるんだ」
といって笑います。
クリキンディは
こう答えました
「私は私にできることをしているだけ」
という話であります。
その話を聞いて、私は思わずそれは仏典にもある話ですと申し上げました。
仏典にもあるというのはどんな話ですかと工藤さんに聞かれましたので、すぐに紹介しました。
一羽のオウムがエサを探して奥山で道に迷ってしまいました。
迷っていると、この奥山の鳥や獣たちが出てきて、
「明日送ってあげるから、僕たちのねぐらにおいで」
と、言って食べ物も、あたたかいねぐらも、さらに、一緒にオウムを囲むように寝てくれて、オウムはすっかり安心して眠れ次の日に無事に家に帰ります。
ところが、ある日、この奥山が火事になったのです。
オウムはいてもたってもおられず、何度も谷川に行き、水で体を濡らし、奥山の火にその体の水をかけました。
しかし、その水は、2~3滴しか落ちませんでした。
それを見て、仲間達はこう言いました。
「そんな水で火は消せない、骨折り損だ」
すると、オウムはこう言ったのです。
「私の持っていく水は僅かです。あの大火事は消えないかもしれません。
でも、あの火の中に、私にこのうえもなく親切にし、助けてくれた友だちが、いま苦しんでいるかと思うと、私はやめることはできません。私は、水を運びます」
といって、せっせと水を運び続けました。
すると、奇跡が起こり大粒の雨が降ってきて火事が消えるのです。
『雑宝蔵経』にある話なのです。
環境のことは他人事ではありません。
実に自己の問題です。
そして自分たちの子や孫達の問題でもあるのです。
お互いに出来ることを探して取り組んでゆきたいものです。
横田南嶺