父母の恩を思って生きる
「これまで親の恩が分らなかったと解った時が、真に解りはじめた時なり。親恩に照らされて来たればこそ、即今自己の存在はあるなり」(『森信三一日一語」より)
と仰せになっています。
かつて森信三先生の高弟である寺田一清先生から、
「父母の恩の有無厚薄を問わない。父母即恩」という西晋一郎先生の言葉を教えていただいたことがあります。
考えてみますと、禅僧も親孝行な方が多いように思われます。
円覚寺の開山仏光国師も、三十歳から七年もの間、白雲庵において母を養って庵居され孝養を尽くされました。
日本においても、紀州の由良にある興国寺の御開山、法燈国師もまた、母に孝養を尽くされた方であります。
国師は六十歳になって、自分の母がふるさとで年老いていることを知って、和歌山の興国寺からはるばる、長野の松本まで母を迎えに行かれました。
すでに六十歳の国師が、高齢の母の手を引いて、あるときは背負いながら、長野から紀州和歌山の興国寺まで連れて帰られたのでした。
当時興国寺は修行の道場でありましたので、お寺の中に母を住まわせるわけにはいかず、お寺のすぐ門前に庵を建てて、そこに住んでもらい、国師は毎日自ら庵に出かけては、孝行を尽くされました。
高齢のため母はわずか一年ばかりで亡くなってしまいますが、その庵を寺にして、そこに母のお墓を建てて、法燈国師は、九十歳でお亡くなりになるまで、毎朝裸足で墓参りを欠かされなかったというのであります。
今はその母のお墓は、興国寺の御開山のお墓の隣に祀られています。
あの白隠禅師を厳しく鍛えられた正受老人のようなお方も、三十五歳で正受庵にこもり、母親と共に過ごされ、孝養を尽くされています。
先日紀州大泰寺の雪潭老師のことを紹介しました。
薄幸の幼少時代を過ごされました。
幼くして父を亡くし、七歳で大泰寺に預けられたのでした。
それでも父母の恩を大事におもってでありましょうか、『父母恩重経』をよく講義されていたというのであります。
父に早く別れ、七歳で母のもとから離れて寺で過ごすというと、父母の恩は薄いように思われますが、薄幸だと受け止めるか、七歳まで育ててもらったと感謝するのかで、生涯は大きく変わってきます。
不幸だと思えば不幸な生涯になりましょうが、育てていただいた恩を大事に生きれば、親孝行となりましょう。
円覚寺の中興と呼ばれた誠拙禅師のことを思い起こしました。
誠拙禅師もまた、三歳で父を亡くし、七歳で宇和島の仏海寺に預けられて出家しています。
雪潭老師と同じく薄幸といえば薄幸であります。
よく似た幼少時代だと思います。
七歳から十年ばかりをこの仏海寺で過ごされますが、誠拙禅師はあまり師匠の言う事を聴かぬ小僧だったようです。
よく師匠から叱られて、それでも手に負えなかったのか、母が時折仏海寺を尋ねては、師匠のいうことをよく聴くようにといさめ、諭していたというのです。
母の住まわれていた家串という所から仏海寺までは二十キロほど離れています。
そんな山道を我が子を思って歩いてきてくれていたのでした。
誠拙禅師にそんな母を思って作った和歌が残されています。
おとづれていさめ給ひし言の葉の
ふかき恵みをくみて泣きけり
という和歌であります。
七十歳を過ぎた禅師が、幼い頃に、たびたび寺を訪ねては自分のことをいさめてくれた母を思い出し、その母の愛情に涙を流しているのであります。
こんな和歌も残されています。
子を捨てし親の心をわすれなば
奈落は袈裟の下にこそあれ
というのであります。
七歳で寺に入れられたことを不幸と思うか、誠拙禅師は、七歳の子を手放して寺に預けなければならない母の気持ちを思いやっているのです。
どんな思いで母が我が子を寺に預けたのか、その断腸の思いを忘れたら、自分などはたとえ袈裟をつけた僧侶であっても、奈落に落ちるというのであります。
雪潭老師が、『父母恩重経』を講義されていたのも、そんな思いだったのだろうかと察します。
誠拙禅師にしても雪潭老師にしても、この我が母の深い悲しみを生涯心に持ち続けて忘れなかったからこそ、すぐれた禅僧として慕われたのでありましょう。
誠拙禅師の母は当時としては珍しく九十九歳でお亡くなりなっています。
驚くべきは、その時禅師は七十歳でありましたが、母の供養のために西国三十三ヵ所の巡礼を始めるのであります。
今のような車も鉄道もない時代に、七十の老僧が三十三ヵ所の札所参りはたいへんなことであります。
一年あまりかけて巡礼を果たされたのでした。
その途上で詠われたのが
たらちねの長き別れの手向けには
いやつつしまん我身ひとつを
という和歌であります。
母の死後も自分は僧としてこれからもわが身を慎んでゆくことを誓っているのであります。
禅師にとって母は産んでくれたご恩と共に、自分を仏道に導いてくれた大恩のある方だと受け止めていたのであります。
自分の境遇を不幸と受け止めて生きるか、そんな中でも産み育ててもらった親の恩を感じて生きるかで、大きくその生涯は変わってくるものです。
誠拙禅師や雪潭老師のことを思うとそんなことを考えさせられました。
横田南嶺