『禅と出会う』
新たに社会人となる方、新たに大学生となる方、高校生、中学生となる方、小学校に入る方などにとっては、新たな門出であります。
この新年度の始まりの日に、私の新しい本が出版されます。
この本は、私が花園大学の総長に就任して初めて学生達に授業をした講義をまとめたものであります。
『禅と出会う』という本です。
その講義録を、一般の方々に向けて、禅とは何かということを、入門的に語った内容となっています。
まえがきには、次のように書いています。
「花園大学は一八七二(明治五)年に妙心寺山内に創建された「般若林」がそのはじまりです。
その後、臨済禅の心を建学の精神とする大学となって、今年二〇二二年に創立一五〇周年を迎えます。
花園大学の学長は、代々臨済宗を代表する老師が勤めてこられました。
初代は、坂上真浄老師であり、第二代の学長は円覚寺の釈宗演老師であります。
第二十代まで、宗門の老師方が勤めてこられましたが、大学の制度上の問題があって、第二十一代からは、老師ではなく教授の方が就任するようになりました。
そこで、新たに総長という役職を作り、建学の精神である臨済禅の象徴として、専門道場師家及び師家分上の者から選出されることになったのでした。
初代の総長は河野太通老師であります。老師は妙心寺派の管長も勤められ、大学の学長も勤められた方で、宗門の誰が見ても、現代の臨済禅の象徴でいらっしゃいます。
どういうわけか、その第二代総長に私が就任することになりました。
臨済禅の象徴などとはとても言えるものではありません。
総長には実務権限は無いということでしたので、入学式と卒業式だけ行けばいいのかと思っていましたところ、学園の理事長からは、入学式、卒業式よりも、一年に何回でもいいから学生たちに話をして欲しいと言われました。
その理事長の熱意に動かされて、前期三回、後期三回学生たちに授業をするようにしました。
「禅とこころ」という公開講座に毎月出講するようになったのでした。
聴講する学生が皆仏教学の専攻であれば、かなり専門の話もできるのでありますが、花園大学において、今や仏教学の学生は全体からみると少ないのであります。
ということは、多くの仏教学以外の学生たちに話をすることになります。
公開講座ですから、コロナ禍の前までは大勢の方々が聴講に来てくれました。
そこであまり専門的になりすぎないように心がけながら、建学の精神たる「禅的仏教精神」を伝えようと努力してきました。
本書は二〇一八年花園大学で総長としてはじめて一年間講義したものを、一冊にまとめたものであります。
『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などお釈迦さまの言葉から、臨済禅師の言葉、それに鈴木大拙の言葉などを用い、はては相田みつをや坂村真民の言葉まで、幅広く引用しながら、自由に語りました。」
という内容なのであります。
六回の講義をまとめましたので、
第一章 まなぶ – 大木の姿に
第二章 こえる – 関所や関門を
第三章 ととのえる – 身体と呼吸と心と
第四章 いきる – 風と光の中で
第五章 めざめる – 「もう一人の素敵な私」
第六章 たえる – 幸いの方へ
という六つの章に分かれています。
いちばんはじめに学生さん達に、大木に学ぶということをお話したのでした。
臨済禅師が、山中に松の樹を栽えたという故事から、大木に学ぶことを伝えたのでした。
「私は禅というのは人間の生き方であろうと思っております。
禅僧というのは、それぞれの行き方があります。
またいろいろな禅僧の生き方があります。
十人禅僧がいれば、十人それぞれの生き方と教えがある。
こういうところが禅の魅力ではないかと思っています。
今日は分かりやすい話ということで、「大木の姿に学ぶ」と題して話をします。
木というのはいろんなところに生えていますから、親しみやすいものですが、大木となると、どうでしょうか。
学ぶというのは、いろんな学び方があります。
一つは人から学ぶ。皆さん方も、これから学生生活の中で、大学の先生から教えを学ぶ。
それからもう一つは書物から学ぶ。これも大事なことです。
さらにもう一つ、禅で大事にしていることに、大自然から学ぶ、という学びがあるのです。それを今日は話したいと思います。」
と書いています。
そこから、『論語』の言葉や、坂村真民先生、相田みつを先生の言葉を用いてお話しています。
第一章で大木について書きましたので、本のカバーも円覚寺の大木、ビャクシンの写真にしています。
第二章は、「こえる – 関所や関門を」という題です。
ここでは、少々専門的に『無門関』という禅の書物から、第一則の趙州の無字や、第五則の香厳上樹の問題を取り上げて書いています。
その禅の問題を通じて、「本当の自己」とは何か、「いのちの輝き」とはどういうことについて書いています。
第三章は「ととのえる – 身体と呼吸と心と」という題で、ここでは『天台小止観』という書物によって、如何にお互いの心をととのえるのかという具体的な方法について論じています。
禅の本質は、頓悟といって、階梯に経ずに一度に気がつくことにあります。
しかし、なにもせずに、ただ棚からぼた餅が落ちてくるのを待っているわけではありません。
普段から、坐禅に勤めて、心を調えているのであります。
その修練として、『天台小止観』という書物にあることを紹介しています。
そうしてよく調えられた自分こそが、お互い本当の拠りどころとなるのであります。
第四章は「いきる – 風と光の中で」という題であります。
ここでは「風」が主題となっています。
仏典の中で、「風」がどのように説かれているか、いくつかの事例を挙げながら、更に禅の語録で扱われる「風」について書いています。
そこから坂村真民先生の説かれた「風光る」世界について語っています。
第五章は「めざめる – 「もう一人の素敵な私」」という題です。
ここでは、『臨済録』について書いています。
臨済禅師の説かれた「一無位の真人」とは何かについて説いています。
お互いが本来の素晴らしい、素敵な私に目覚めて、そこから慈悲のはたらきにでることを述べているのです。
最後の第六章は「たえる – 幸いの方へ」という題です。
ここでは、耐え忍ぶ事について書きました。
私の修行時代の思い出を語りながら、堪え忍ぶことこそ宝であることを説いています。
その苦しみに耐える経験が、慈しみへと転換するのであります。
というわけで、いろんな苦しみを体験することに大きな意味があることを語りました。
今でもよく覚えているのですが、この第六回目の講義を終えて、大学の近くのうどん屋さんで、うどんをいただいていた時のことです。
いかにも今風の姿をされた学生さんが、私のところに寄ってきました。
なにか言うのかと思って身構えたのでしたが、その学生さんが、私に深々と一礼して、
「今日は素晴らしいお話を聞かせていただき有難うございました」と礼を言われたのでした。
私は驚いたのでした。
今の若い人達に、こんな耐え忍ぶ話など通じるのだろうかと内心不安に思っていたのですが、ちゃんと聴いてくれていたのでした。
たった一人の学生さんであっても、こういう気持ちで受け止めてくれたのなら、講義をした甲斐があったと思ったのでした。
そんな講義録を春秋社という出版社が、一冊の本にまとめてくれたのでした。
横田南嶺