一番たいへんなのは人間関係
円覚寺には幼稚園もありますので、今年も卒園式を行いました。
毎年のことですが、一人一人の卒園児に修了証書を手渡しています。
そのときに感じるのが、園児達の目のきれいなことです。
子供というのは、こんなにきれいな目をしているのだと感動します。
そこでいつも、保護者の皆様には、大切なお子様を預けていただいたお礼を申し上げると共に、この子どもたちの澄んだ目が、にごったりくすんだりしないように、私たちは見守ってゆかなければならないと申し上げています。
卒園児たちには、一人一人に
花がさいている
せいいっぱい
さいている
わたしたちも
せいいっぱい
生きよう
と色紙に書いて差し上げています。
これから小学校に入り、中学、高校と経てやがて社会に旅立つのでしょう。
どんな処に行ってもその場所で、精一杯生きて欲しいものです。
花は必ず光に向かって伸びてゆきます。
草や木は、みなそうです。
光ある方へ、明るい方へと芽を出して枝を伸ばすのであります。
そのように人も明るい方へ、光ある方へと伸びていって欲しいと願うのであります。
卒園式を終えると、京都の花園大学の卒業式に出掛けました。
今年の卒業式は、感慨深いものがあります。
私が花園大学の総長に就任して初めて迎えた学生さんたちが、今年卒業を迎えたのです。
あれから四年が経つのだとしみじみ思いました。
卒業生たちは、これで無事に卒業なのですが、私は残念ながら留年となって、もうしばらく総長の役にとどまることになってしまいました。
大学では、学長がいまして、学長が丁寧に式辞を述べてくれています。
私はお祝いの言葉を述べればいいのであります。
おめでとうとお祝いを述べたあとに、こんなことを卒業生たちに伝えました。
私は大学を卒業して以来ずっと修行道場で過ごしています。
三十五年にもなります。はじめは修行僧として過ごし、後半は指導者として過ごしてきました。
禅の修行の世界に長年身を置いてきていろんなことを学びました。
禅の修行というとたいへんに厳しいもののように思われるかもしれません。
たしかにこの今の時代に、冷暖房も無い、テレビも新聞も見られない中で薪でご飯を炊いて過ごします。
そんな中で何が一番たいへんでありましょうか。
夏の暑さ、冬の寒さ、たしかにたいへんですが、体は慣れるものです。
坐禅をして足の痛いのにも、慣れてゆくものです。
足が痛いからとって、修行を途中でやめるものはいないのです。
どうにも耐えがたくて、修行を途中でやめる場合のほとんどは人間関係であります。
先だって、ある出版社からビジネスマン向けの禅の本を作りたいといって、ビジネスマンの悩みに答えるという本の取材を受けました。
ビジネスマンの方の五十もの質問、悩みをいただきました。
拝見すると、そのほとんどすべてが人間関係であります。
上司とうまくゆかない、いやな上司がいたらどうしたらいいのか、部下がいうことをきかない、同僚とうまくやってゆけない、などなどであります。
やはり人間が生きるには、人間との関係ほど難しいものはないのであります。
これはビジネスの世界でも禅の修行の世界でも人間であるからには同じだと思いました。
たしかにお寺にいても人間関係は難しいものであります。
どこの世界でも同じでありましょう。
そこでこの難しい人間との関係をどうしたらいいのか、私の経験から一つの智慧を授けたいと思います。
鎌研ぎの名人の話を聞いたことがあります。
鎌研ぎの名人という方がいたそうです。
その鎌研ぎの名人たるゆえんは、たとえどんなヘタな人が研いだ鎌であっても、自分には及ばない点を一点見つけることができるというのであります。
この話を聞いて、私はどんな人にあっても自分には及ばないところみつけることが大切だと思いました。
私たちは人の欠点にはすぐ目に付くものです。
嫌な人ならなおさらのことであります。
また部下でも持って指導していく立場になると、ついつい欠点を見つけてそれを矯正しようと思いがちです。
しかし、それがうまくゆかないことが多いのであります。
それよりも、どんな人にも自分にも及ばないところを見つけることです。
どこかに何かあるはずなのです。
自分には見えていないものがあると思って接していると、人間関係が変わってくるものです。
どんな人も生まれてきたからには、無限の可能性を秘めているのです。
そのことを信じて可能性の開花するのを待つのであります。
こんなことを心に止めておいて欲しいと話をしたのでした。
この無限の可能性というのを、仏心とも仏性ともいうのでありましょう。
高楠順次郎先生は、
「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。その尊さを発揮した完全位が仏である」という言葉を残されています。
仏とは「無限の可能性」であるというのであります。
大乗仏教ではみんな本来仏であると説きます。
みんな誰しも「無限の可能性」を本来持っているのです。
ところが、多くの場合可能性を開花させずに、自分で自分を見限ってしまうのです。
人間関係でつまずくことなく、可能性を見限らずに生きてほしいものです。
卒園児にしても卒業生にしても、同じく、終わりの二年間というのは、新型コロナウイルス感染症の蔓延の為に、普段とは異なる暮らしをせざるを得なくなりました。
マイナスといえばマイナスでありましょう。
例年あたりまえのように出来ていたことが、できなくなったのでした。
確かに貴重な体験ができなくなったという思いもあろうかと察しますが、これも貴重な体験だったと受け止められるようにと願っています。
横田南嶺