禅僧の悲しみ
とりわけ神倉神社にお参りしたのは、実に久しぶりであります。
速玉大社のホームページによると、
「「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
…
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。」
というのであります。
また同じページには、熊野信仰について、
「自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。
「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていきます。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れました。これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっています。」
とも書かれています。
そんな信仰の地が熊野なのであります。
熊野本宮、新宮、那智とを熊野三山と申しますが、それぞれ本宮は阿弥陀さま、新宮は薬師さま、那智は観音さまを現していると教わってきました。
神倉神社というのは、その熊野信仰の原点ともいうべき聖地です。
熊野の神様が三山として祀られる以前に、はじめて降臨されたところなのです。
天の磐盾という峻崖の上にあって、ごとびき岩という大きな岩がご神体であります。
そこに登るまでに、五百数十段の自然石の石段があります。
この石段が、源頼朝が寄進されたと伝えられています。
毎年二月六日に御燈祭というお祭りが行われています。
松明に火をつけて、この険しい石段を駆け下りる神事であります。
神武天皇が東征された折に、高倉下命が松明をかかげて神武天皇を熊野の地に迎え入れたことが始まりだと言い伝えられています。
私も子供の頃から、毎年このお祭りに参加して、山を登っていました。
先日久しぶりにこの急な石段を登ってみましたが、よくこんな石段を暗い中、たいまつの明かりで駆け下りたものだと思いました。
折からよいお天気で、石段を登ると新宮の町が一望できて、爽やかな気持ちになれました。
更に阿須賀神社にもお参りしました。
熊野の権現は、まず神倉の降臨して、そのあとに阿須賀神社の地に移られたという伝説があります。
蓬莱山と呼ばれる小さな山の麓にあるのです。
境内からは弥生時代の遺跡も発掘されていて、熊野における歴史と信仰の最古の場所なのであります。
紀元前の昔、秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて、徐福を遣わせました。
その徐福が来たのが、ここ新宮だと言い伝えられているのです。
徐福の伝説は日本のいろんな処にあるようですが、熊野もそのひとつなのです。
新宮の駅前には徐福のお墓もあります。
『史記』によれば、徐福は、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の若い男女と多くの技術者を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述があるのであります。
三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州のことです。
阿須賀神社が蓬莱山というのも関わりがあるようです。
さて、その阿須賀神社になんと円覚寺の開山仏光国師の詩碑が建っているのです。
仏光国師の詩碑は、私の知る限りでは、この阿須賀神社しかありません。
どんな詩かというと、
香を寄せて熊野大権現に燒獻す。
先生、薬を採って未だ曽て回らず。
故國の關河、幾度の埃ぞ。
今日一香、聊か遠きに寄す。
老僧亦為に秦を避けて来る。
というものです。
どういう意味かというと、詩碑の横にある解説文には、
「徐福先生は、不老長寿の薬草を採りに行かれてから、まだ帰られません。
その後、故国中国の山河は、幾度も戦争があって混乱しています。
今日は、先生をお祀りする熊野の杜に、はるかに香を捧げます。
(老僧の)この私も先生と同じように、戦乱の故国を避けて日本にやって来ました。
(若林芳樹先生訳)」
と書かれていました。
徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を求めてこいと言われて故国を出てとうとう帰りませんでした。
始皇帝の暴政に耐えかねていたのかもしれません。
それから中国では幾度も戦乱が続きました。
無学祖元禅師もまた、元の国に攻められて、危うく一命を落としそうになりながらも、日本にお見えになりました。
遠くふるさとを離れざるを得なかった思いを、徐福と重ね合わせているのであります。
禅僧といえどもふるさとは有り難いものです。
そのふるさとを追われた深い悲しみを思うのであります。
横田南嶺