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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.03.05
今日の言葉

露の世ながら さりながら

先月末の二十七日、円覚寺で行われた寿徳庵斉藤宗憲和尚様の御法話は、胸打つものでありました。

私も、お邪魔にならないように、廊下で拝聴していましたが、涙を禁じ得ませんでした。

有り難いことに、動画も残してくださっていますので、まだご覧になっていない方がいらっしゃれば、是非ともご覧いただきたく願います。

私も三十年前のことを思い起こしました。

三十年前の二月二十七日、私はまだ二十七歳で、前管長足立大進老師のもとで修行していました。

寿徳庵の奥様が入院されて、体調がよろしくないとはうかがっていました。

山内でお目にかかる寿徳庵の和尚様の御表情も、沈んでいらっしゃるようにお見受けしていました。

それでもまさかお亡くなりになるとは思ってもいなかったのでした。

病院からご遺体が帰ってくるというので、寿徳庵は参道からかなりの階段を上ったところにありますので、数名の雲水と共に、ご遺体を寿徳庵までお運びしました。

葬儀は、当時の管長足立大進老師が導師をおつとめになりました。

老師のおそばにいても、心をこめて葬儀を勤められたという印象が残っています。

引導の最後に、

あふむくもうつむくも梅の浄土かな

という一句を手向けられたことも、よく覚えています。

吾仲という方の句であります。

一番下のお嬢さんは三つくらいでありました。

ご長男もまだ小学生でありました。

お棺を担いで階段を降りたことも覚えていますが、それよりも出棺の時の幼いお子さん達のお姿が今もまぶたに残っています。

ご家族の悲しみも察するにあまりありますが、こんな幼い子供たちを残して逝かねばならないご本人の気持ちは、私など想像だにできないものであります。

三十年経って、ようやく語ることができるという和尚様のお言葉も深く胸に響きました。

新聞の投書に、ご主人を亡くされたばかりの奥様が、周りの人が気遣ってくれて、いろんなところに行こうと誘ってくれるのだけれども、それは有り難いことですが、今はそっとしておいて欲しいのだと書かれていたことを思い出しました。

そっとしておいて欲しいということもあるものです。

寿徳庵様は、このことがご縁になって、骨髄バンクの運動に関心を持たれて、円覚寺で骨髄バンクのチャリティーコンサートを行うようになりました。

はじめて催した時には、私もお手伝いをして、それからコンサートも拝聴させてもらったのでした。

管長に就任して、コンサート二十回記念には、挨拶もさせてもらいました。

今でこそ、お寺でコンサートも珍しくなくなりましたが、当時はまだそんな雰囲気も無く、始めるのはたいへんだったろうと思います。

それでもそんな啓蒙活動が実を結んで、今日骨髄バンクもずいぶんと登録が増えて、多くの方が骨髄移植で助かっているのだそうです。

そんな法話を拝聴したあと、このYouTubeを聞いてくださったという方の来訪を受けました。

こちらの方は、近年お嬢様を亡くされたという方でありました。

涙ながらに、これまでも経緯を話してくれました。

ずっと頷きながら拝聴していました。

胸打つ話でありました。涙無しでは聞いていられませんでした。

まだまだ、娘のことを人に話す気にはなれないのですと仰ったので、その直前に聞いた寿徳庵様のお話をして、和尚様ですら、三十年経ってようやく話せるようになったというのですから、無理せずにいればいいのではないですかと申し上げました。

あの哲学者西田幾多郎先生も多くの肉親を亡くしています。
十三歳の時にはまだ十七歳の姉を亡くし、三十四歳の時には弟が戦死しています。

三十七歳で次女幽子を五歳で亡くし、同じ年に生まれた双子の五女愛子を生後一ヶ月で亡くします。

五十歳で二十三歳の長男を、五十五歳で四十九歳の妻を、七十一歳で三十三歳の四女を、七十五歳で四十九歳の長女を亡くしているのです。

友人の藤岡作太郎『国文学史講話』(1908)という本に書いた序文で、

「親の愛は実に純粋である、その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。

ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。

若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。

しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。

時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。

何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。」

「折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。

この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」

という文章です。

大哲学者にしてもこの悲しみであります。

小林一茶は五十六歳の時に長女さとを授かります。

この娘をこよなく愛していた様子が、一茶の『おらが春』に書かれています。

しかしこのさとが、次の年には天然痘に罹って亡くなってしまいます。

「母は死顔にすがりて、よゝよゝと泣なくもむべなるかな。この期に及んでは、行く水のふたゝび帰らず、散る花の梢にもどらぬくひごとなどゝ、あきらめ顔しても、思ひ切きりがたきは恩愛のきづな也けり。」

と述べています。

母は死に顔にすがってよよ、よよと泣くけれども、無理もないことだ。この期に及んでは、行く水が再び帰らない、散る花は梢にもどらないなどと諦め顔をしてみても、吾が娘さとへの思いを断ち切り難いのは親子の恩愛の絆があればこそである」
という意味です。

そのあとに

露の世は露の世ながらさりながら 一茶

という一句を残しています。

この世は露のようにはかないものだと十分に分かっている、分かってはいるけれども、という思いです。

「さりながら」という五文字に一茶の万感がこめられています。

 
横田南嶺

露の世ながら さりながら

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