鬼と仏と
豆まきをする日であります。
昨年の節分の頃にも書いたことですが、円覚寺では特別に豆まきをすることはありません。
お隣の建長寺様では盛大な豆まきが行われているようですが、円覚寺で豆まきはないのであります。
昨年には、豆まきについて診療内科医の海原純子先生のことを書いたのでした。
海原先生は子どもの頃に、「鬼は外」と大きな声で叫んで、窓から豆をまくと、お父さまから叱られたそうなのです。
お父さまの仰るには、
「窓の外は隣の家の内なのだ」
ということです。
私は、こういう感覚がいいなと思うのです。
豆まきには、あまり私は積極的になれないものを毎年感じるのであります。
そもそも豆をまいて、払われるのは、自分の方だと思うのであります。
だいたい、世間ではやっているようなものには、興味を持ちません。
こういう性格をあまのじゃくというのでしょう。
あまのじゃくというのは、どういうものか『広辞苑』を調べてみると、
①昔話に出てくる悪者。人に逆らい、人の邪魔をする。天探女(あめのさぐめ)の系統を引くといわれるが、変形が多い。
②わざと人の言に逆らって、片意地を通す者。
③仁王や四天王の像がふまれている小鬼。
という解説があります。
もとは日本の古い神話に出てくるあめのさぐめのことなのです。
あめのさぐめというのは、「古事記の神話で、隠したものを探り出す力を持ち、人に逆らって邪魔をする女の名。天照大神の詔を受けて天稚彦(あめわかひこ)をそそのかし、高天原から遣わされた雉(きぎし)を射殺させた」と『広辞苑』の解説には書かれています。
四天王像の足下に踏みつけられている天邪鬼はよく知られていますが、これは、鬼づらの鬼が中国の水鬼(水をつかさどる鬼)である河伯(黄河の神)と考えられ、河伯と同類の中国の水鬼、海若が、あまのじゃくと訓読されることから我が国古来の天邪鬼と習合されて、足下の鬼の総称に敷衍されたのだと『仏教辞典』に書かれています。
『仏教辞典』で「鬼」を調べると、
「死者の霊を一般に<鬼(き)>という。
中国では古来、心思を司る<魂(こん)>は昇天して<神(しん)>となり、肉体を主宰する<魄(はく)>は地上にとどまって<鬼>となるとするが、<鬼>字は人屍の風化した姿から成立し、「鬼は先祖を祭るなり」〔広雅釈天〕とあるように亡霊をいう。」
という解説がまずあります。
それから「インドの死者の霊(逝きし者)を訳して、<鬼><餓鬼(がき)>というが、仏教流入によって輪廻(りんね)転生する鬼、供養をうける亡霊の観念が生じた。
餓鬼は死霊が飢えて供養を待つと考えたからであり、鬼界は霊魂輪廻の一界すなわち六道の一つに数えられる。」
というのであります。
更に
「日本の<おに>の語源については諸説があるが、<隠(おん)>の字音の転訛らしく、原義は隠れて見えないもの、すなわち常民社会とは異なる世界にあって不断は目に見えないものの意であろう。
それらは折にふれて常民社会に去来し、その生活に多大の影響を及ぼし、特に種々の災禍をもたらすことが多いと考えられた結果、畏怖すべきもの、猛々しく恐ろしいものとされるようになったのであろう。」
と書かれていて、
そして「こうしたやや漠然とした在来的<おに>の概念に外来の仏教の鬼や中国の鬼の概念が結びついた時に、日本の鬼の概念や形状にも次第に整理と輪郭づけが進み、やがて後世の固定化した鬼へと展開していったものらしい。ちなみに形状一つを例にとっても、平安時代などはいわば習作時代で、人体を基本に鬼の猛威と怪奇性を強調するための種々のデフォルメが施され、肌色も黒・赤・紺青・緑など多彩で、後世の『百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)』を見る思いがする。」
というように、今日豆まきで見かけるような、鬼の姿になったのであります。
この体 鬼と仏と あい住める
という句にあるように、鬼と仏と簡単に区別して、鬼を除けばいいというものではないと思います。
ある有名な画家が浅原才市さんの肖像画を描いたそうです。
できあがった画を見て才市さんは、こんな立派な肖像画は自分ではないと言いました。
書き直された肖像画には、頭にツノが二本生えていたというのです。
「頭に鬼のツノを描いてください。人の心を突き刺し、他人を傷つけてしまう恐ろしいツノです」と才市さんが画家に頼んだのだということです。
『人間の底』という三上和志さんの本に、たとえば一家で持て余しているような者を除こうとするとどうなるか、興味深いことが書かれています。
「邪魔者を除きたくなり、除けば失われた幸と平和が来るように思うが故に、邪魔者を邪魔にし、除きたくなり、捨てたくなる恐ろしい気持は、どの人の心の底にもあるものだ。
人間の心の底にあるものは、こう云う恐ろしいものなのだ。
それが人間の本来の姿かも知れない。
人間の底には、その様なものが横たわっているのだ。
云う迄もなく、人間の心の底には、この様な恐ろしいもののみではない。
美しい尊いものも底にはある。
然しこのように恐ろしいものがあることも事実であることを見のがしてはならない。
この底にある恐ろしいものが、その人の運命を曲げ、ぬきさしならぬものを作り上げ、俗に神仏の罰が当ったと云う罰の原因を作り上げて行くのではあるまいか。
殊にいけないことは邪魔になるものを除き又は邪魔になるものから逃げれば「幸が来る」ように思い、平和が戻ると思うことである。
決して幸福も平和も戻って来ない。」
というものです。
無邪気に豆まきをするのは微笑ましいことでありますが、単純に鬼を追い払えばいいのだというのは考えるべきであります。
仏と鬼は同居しているので、豆をまいて鬼だけ追い払えるものではないと思っていながらも、豆だけは食べている私は、やはり天邪鬼なのであります。
横田南嶺