憎愛無ければ
修行道場では、一年を二学期に分けて修行しています。
夏の夏安居と、冬の雪安居であります。
円覚寺の修行道場では、一月の末で雪安居を終えて、二月一日には、解制といって、安居が開けるのであります。
安居の最中を制中、その間を制間といっています。
かつては、円覚寺では制中と制間の区別はないと言って、変わることなく修行していました。
このコロナ禍になってからは、制間の間は、それぞれ各自のお寺に帰って修行してもらうようにしています。
もともと制間というのは、単なる休みではなく、曽ては行脚をして修行を深めたのでありました。
そういう次第で、今回も制間は各自工夫して修行してもらって、また制中になって戻って集まって修行をすることにしているのであります。
達磨大師から三代目の祖師に三祖僧璨禅師という方がいらっしゃいます。
この僧璨禅師が残されたのが、『信心銘』という書物であります。
その『信心銘』の冒頭に、
「至道無難、唯揀択を嫌う。只憎愛無ければ、洞然として明白なり」
という言葉があります。
仏道の究極は、なにも難しいことはない、ただえり好みをしないことだ。
ただ憎愛がなければ、からっとして真理ははっきり現れているという意味であります。
憎愛というのは、愛憎といっても同じであります。
「愛憎」を漢和辞典で調べてみると、
「好もしく思ったり憎んだりする感情。愛と憎しみ。
かわいがることと、憎むこと。」
という意味がございます。
『広辞苑』では、「愛憎」「憎愛」も共に「愛することと、憎むこと」と解説されています。
えり好みをしないというのは、区別しない、差別しないということでしょう。
区別し差別することがなければ、愛憎も憎愛も起こりようがないのであります。
一月の末に、金澤泰子さん、翔子さん親子に久しぶりにお目にかかって、対談をさせていただく機会がありました。
出版社の企画なので、対談の内容を紹介することはできないのですが、私は金澤翔子さんにお目にかかって、このえり好みしない、区別しない、憎愛のない心を学ぶことができました。
以前にも、金澤泰子さんが、
「翔子は虫を殺せない。どんなに小さな虫も、蚊さえも殺さない。
今朝、翔子の腕に小さな羽の付いた虫が飛んできて、慌てて瞬間的に払いのけたら、その虫が地に落ちて微動だにしない。
背中を丸めて翔子は「ごめんね、ごめんね」と謝っている。」
とPHP誌に書かれてたことを紹介しました。
泰子さんは、その虫は死んだふりをしているのだろうと書かれていますが、翔子さんは、「涙ぐんで蘇生を願い、深く謝る」というのであります。
そして更に「そのうちに翔子がその虫に、お経 (般若心経)を唱えはじめた」というのであります。
人でも決して区別をしないというのです。
嫌だとか、嫌いだということはないのだそうです。
誰でも同じに接するのだそうです。
人のみならず、命あるものを区別しないというのです。
区別することがないから、苦しみがないのだと思いました。
たとえ台風が来ても、台風を嫌ったりはしないのだそうです。
私などは、こういうお寺を預かっていると、台風がくると木が倒れないか、崖が崩れないか、早く過ぎてほしいなどと思ってしまいます。
こういうのがえり好みなのです。
翔子さんは、区別する心がないので、昨年の末に、六本木で大きな展覧会をなさったのですが、そんな大きな催しをしても、小さな会場で展覧会をしても全く同じなのだそうです。
だから、苦悩が生じないなのだと分かりました。
私などは、いまだに昨年の暮れに、和歌山県新宮市で八百名の講演会を行ったということを喜び、今の時期になってまた講演が中止になることにがっかりしているのであります。
憎愛がないというのは、仏道の究極なのです。
『般若心経』に白隠禅師が注釈された『毒語心経』という書物があります。
そのなかに、
「是非憎愛、総に拈抛せば、汝に許す生身の観自在」という言葉があります。
是非を分ける、選り好みをする、憎愛、それらをすべて投げ捨てたならば、あなたは生身の観音さまですよという意味であります。
禅文化研究所発行の『般若心経毒語註』に山田無文老師は、次のように提唱されています。
「生まれたままの赤子のような心になって、鏡のようなきれいな心になって、いいとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、損だとか得だとか、勝ったとか負けたとか、そうした情念がなくなるならば、善人も悪人も、美人も醜女も、一切差別せずに、すべてをありのままに受け入れることができる。
秋晴れの空のような雲一つない明るい心になって、自分と他人の区別さえなくなる。
宇宙がそのまま自分、自分がそのまま宇宙だとわかる。そうはっきりわかる人があるならば、そういう人は、この身このままの観自在菩薩と申し上げることができる。
そうなることが、人生の一番幸せなことでなければならんと思うのであります。」
というのであります。
苦しみは、自分自身がえり好みをして区別し差別し、憎愛を起こしているから生じているのだと改めて、金澤翔子さんにお目にかかって学ぶことができました。
横田南嶺