何事も楽しんで打ちこむ
修行道場では、季節毎の行事を大切にしていますので、七日の朝は七草粥をいただくのであります。
厳しい修行の毎日でありますが、このような季節毎の行事には、何か心がホッとするものがあります。
やはり、大きな自然の中に、生かされていることを感じるからなのかもしれません。
いつも朝いただくお粥に七草を刻んだものを入れるだけのことですが、これだけでも何かご馳走に思えるものであります。
大地の恵みをいただくという思いがするのであります。
七日は、七草と共に、独参の修行が始まる日でもあります。
独参というのは、近世の臨済宗の修行の形態で、一人ずつ老師の室内に入って禅問答をすることです。
禅問答といっても、老師の方から出された問題について、修行僧が自らの見解を述べるものであります。
基本的に、毎日朝と晩に二回ずつ行っていて、大摂心という修行の期間になると、一日に三回ないし四回くり返します。
難しい問題を与えられて、それに答えるのですから、たいへんな修行です。
それを何度もくり返すのですから、精神的にはかなり苦痛を覚えます。
しかし、このような苦しみに耐えて、鍛えられてゆくのであります。
正月三が日は、大般若の祈祷を行って、四日から六日まで、新年のお札を配って年始の挨拶にでかけ、七日からもとの修行にもどるのであります。
いろんな修行道場によって、それぞれの日程が決まっていると思いますが、円覚寺ではそのような次第で、七日に新年の修行が始まるのであります。
禅問答で与えられる問題のことを公案と言います。
思えば私は、まだ十三歳の中学生の頃にこの公案をいただいて修行を始めてきたのでした。
まだ公案というものがどんなものなのかもよく分からないうちに、とにかく老師のところへ行って公案をいただいてきなさいと言われてはじめたのでした。
はじめていただいた公案が、心の坐りを持ってきなさいというものでした。
今そこに体は確かに坐っている、しかし心が坐っているかどうかが問題だ、心の坐りをここに持ってきなさいと言われたのでした。
はてさて、姿形もない、目にも見えない心の坐りをどう持っていくのか、あれこれ思案したものでした。
いろんなことを考えては述べる私に、老師は公案は頭で考えるのではない、足の裏で工夫するのだと言われました。
これもまた中学生の私には、足の裏がどのようにして考えるのだろうかと、じっと足の裏を見つめていたことを思い出します。
それからおよそ二十年、この公案に取り組んできました。
公案がいくつあるのか、数えたことがありませんので分かりませんが、たくさんあるものです。
千七百の公案があるとも言われます。
いつ終わるとも分からずに、ただただ次から次へと出される問題に取り組んで二十年過ごしました。
私の青春時代というのは、この公案の修行で終わったといっていいと思います。
どうにか終わりを告げられると、こんどは禅問答を受ける立場になりました。
それからもう二十数年公案による禅問答を毎日受けています。
気がつくと四十数年も公案に取り組んできたことになります。
西田幾多郎先生の言葉に、
「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。」
というのがあります。
実に味わいの深い言葉で、好きな言葉であります。
私もこの感覚がよく分かるのであります。
私の生涯も前半は、柱を背にして坐る老師に向かって禅問答に挑み、後半は柱を背にして坐って、禅問答を受けてきました。
思えば私の一生は、柱に向かって一回転したに過ぎないのであります。
しかし、その柱に向かう一回転に、自分の力のすべてを注ぎ込んだのでした。
昨日からの雪で、今朝は円覚寺もすっかり雪景色であります。
私は、温暖な紀州に生まれ育ちましたので、大学に入るまでは雪というものを知りませんでした。
今でも寒さは苦手であります。修行を始めた頃には、あかぎれとしもやけに悩まされたものでした。
それが、修行道場の暮らしも三十数年続くとすっかり慣れてしまったのです。
禅林句集に
童子は知らず 雪霜の苦、只瓦礫を取って寒氷を打つ
という句があります。
もとは仏光国師の語録にある言葉で、原文は、
童子は知らず 霜雪の恨、自ら瓦礫を抛って寒氷を打つ
というものです。
子供は雪の寒さを知らない、ただ瓦や小石を取って、氷を打っているという意味です。
子供は雪や氷で、無心に楽しんで遊んでいるのです。
そんな時に寒さも冷たさも感じないというのです。
思えば雪が積もって、冷たいな寒いなと思っていても、それで雪合戦でもはじめると、寒さも冷たさも忘れるものであります。
童謡の雪にある
雪やこんこ あられやこんこ
降っても降っても まだ降りやまぬ
犬は喜び 庭かけまわり
猫はこたつで丸くなる
この歌詞の犬のようなものです。
犬が本当に喜んでいるのかどうかは分かりませんが、喜んで駆け回ると寒さも忘れるものです。
いやだ、いやだと思えばますます寒くなって辛くなります。
松原泰道先生の『日本人への遺言』にこんな話が書かれていました。
引用させていただきます。
ある女性会社員の話です。
その女性は、
「仕事が極めて単調で、毎日毎日が同じことの繰り返し。自分はこの仕事に向いてないなどと思いながら、嫌々やっていたそうです。
すると集中していないからかミスが出る。上司からなじられ、同僚からも軽んじられてしまう。彼女は辛くて悲しくて、昼食時間になると会社から離れてひとり、小さな公園に行って気持ちを立て直そうとしていたといいます。」
ということです。
よく分かる気がします。
私どもの修行でも毎日は同じことのくり返しであります。
毎日の禅問答では、老師から厳しい叱責をいただくことの連続であります。
その女性が公園でこんな光景を目にしたのでした。
「その公園には毎日同じ時間に、犬に運動をさせるため、一人の男性がやってくるんだそうです。
ボールを投げては犬に取りに行かせ、犬が持ってきたボールをまた投げては取りにやるという繰り返しの運動です。
これも実に単調な作業なんだけれども、犬を見ると目はキラキラと輝いているし、生き生きとして毛もツヤツヤとしていた。
彼女はそれを見てハッと感じるんですね。仕事でもなんでも、いやだいやだと思って受け身ばかりになっていると、目は輝きをなくし、肌ツヤも悪くなってしまう。
嫌な仕事でもそこにはもっと何かがあるのではないかと積極的に物事を見るようになったといいます。」
という話であります。
この話も犬の気持ちは分かりません。仕方なく人間の相手をしてくれているだけかもしれませんが、その女性の目には、無心に楽しんで打ちこむ姿に見えたのです。
この心の感動が大切であります。
さて、今年一年私たちの修行は毎日掃除して坐禅してという単調な事のくり返しですが、嫌々仕方なしにやるのではなく、生き生きと目を輝かして打ちこみたいものです。
横田南嶺