朝起きて手を合わす
時
日の昇るにも
手を合わさず
月の沈むにも
心ひかれず
あくせくとして
一世を終えし人の
いかに多きことぞ
という一節です。
「時」の詩は、もっと長いのですが、全文を書くと字も小さくなりますので、その一部のみを書いたのでした。
それを読んだある青年の話であります。
この言葉に触れて、自分も毎朝日の昇るのに手を合わせようと思ったというのです。
朝起きて、東の方の空にむかって手を合わせているとのことでした。
朝寒いときもあるのですが、じっと朝日の方に手を合わせていると、体が温かくなってきて、気力が湧いてくるというのでありました。
お日様が出ていなくても、同じように東の空に向かって手を合わせるというのです。
真民先生には、
一人でもいい
一人でもいい
わたしの詩を読んで
生きる力を得て下さったら
涙をふいて
立ちあがって下さったら
きのうまでの闇を
光にして下さったら
一人でもいい
わたしの詩集をふところにして
貧しいもの
罪あるもの
捨てられたもの
そういう人たちのため
愛の手をさしのべて下さったら
という詩がございます。
一人でもいいので、詩を読んで朝日に手を合わせる人がいてくれたなら、もうそれで十分だと思います。
私も毎月詩を掲示板に書いてきて良かったとしみじみ思いました。
松原泰道先生から、金田正一さんと対談した折のことをうかがったことがありました。
金田さんというと、元プロ野球の選手でありましたが、解説者の頃に対談されたのでした。
金田さんは、母親からお天道さまを拝めと教えられたそうなのです。
そこで、選手たちにもお天道さまを拝めと言うのだそうです。
ところが選手も口が達者で、「ナイターだから太陽はでない」と答えたということでした。
それに対して松原先生は、
「あなたの目はふたつしかない、あなたを見る目は無数にある」と金田さんに伝えたという話であります。
お天道さまを拝んだり、いろんな人に見られていると思うと、怖れを生じて悪さができなくなると説かれていました。
それと同時にお天道さまに手を合わせて拝んでいると、お天道さまに見守られている安らぎ、安心も得られるものであります。
一人の青年が、真民先生の詩を読んで朝日に向かって手を合わせるようになったというのはうれしいことであります。
釈宗演老師が、四十三歳の時に自らを戒める為に作られた座右の銘があります。
私が書いた『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(致知出版社刊)から引用します。
一、早起未だ衣を改めず 静坐一炷香
朝起きたら衣を着替える前に、布団の上でもいいから、お線香一本が燃える間、静かに坐る。これは私も一般の人たちに坐禅を勧めるときによくお話しします。夜寝る前に坐るというのは、疲れて寝てしまいますからなかなか難しいと思います。しかし、朝に少し早起きをして枕でもお尻のところにあてて背筋を伸ばして三十分前後坐るというのはとてもいいことだと思います。
一、既に衣帯を著くれば必ず神仏を礼す
着物を着替えたら、まず神様仏様に手を合わせる。これもいいことです。
一、眠るに時を違えず食飽くに到らず
眠る時間はきっちり眠る。眠るべき時でないときは眠らない。食事をするにしてもお腹いっぱいまでは食べないで腹八分目で抑えておく。
一、客に接するときは獨りおるが如く、獨りおるときは客に接するが如し
客に接するときは自分が独りでいるときのようにゆったり寛いでいる。つまり、客のことを意識しないでゆったりとした気持ちで応対するということだと思います。また、独りでいるときは客が前にいるように自分の身を慎む。これは「大学』にある「君子は独りを慎む」というのと同じでしょう。なかなか難しいことですが、いい言葉だと思います。
一、尋常苟も言わず言うときは必ず行う
これは軽々しくものは言わない、言ったことは行うということです。言うことと行うことが一致するのが信であるというのは東洋の伝統です。
一、機に臨んで譲ること莫し事に当たって再び思う
『論語』にも「仁を当りては師にも譲らず」とあります。仁を行うときには誰にも遠慮することはない。しかし、それが本当に大事なことであるのかどうか、もう一度よく考えなさい、ということです。
一、妄りに過去を想うことなく遠く将来を慮れ
いつまでも過去のことを想うのではなく、遠い将来のことを考えなさい、と言っています。
一、 丈夫の気を負い小児の心を抱く
事にあたっては勇ましい気持ちを持ち、それでいて同時に赤ん坊のような繊細な心も忘れるな。
一、寝に就くときは棺を蓋うが如く 褥を離れることは履を脱するが如し
夜、布団に入るときは棺桶に入って蓋をするつもりで寝ろ、と。一日一生、今日で自分の一生が終わるぐらいのつもりで休めと言っているのです。また、朝起きて布団を離れるときは靴を脱ぐが如くにしろ、と。これは布団から出るときに躊躇わないで、靴を脱ぐときのようにサッサと布団から出ろということを言っています。もうちょっと寝ていたいとぐずぐずしていてはいけない、ということでしょう。
この二番目にある、朝目が覚めて着物を着替えたら、まず神仏を拝むということが大切だと感じます。
修行道場にいますと、朝起きて洗面をすませて、法衣に着替えるとまず本堂に出頭して、仏さまを礼拝するのであります。
手を合わせるものがあるというのは、心に大きな安らぎを与えてくれます。
なにか悪いことを考えた時には、歯止めになってくれます。
特別の神仏をお祀りしなくても、朝日の昇る方に手を合わせることでも十分であります。
朝起きて手を合わせることを習慣にするといいものです。
最後に真民先生の「時」という詩の全文を紹介します。
時
日の昇るにも
手を合わさず
月の沈むにも
心ひかれず
あくせくとして
一世を終えし人の
いかに多きことぞ
道のべに花咲けど見ず
梢に鳥鳴けど聞かず
せかせかとして
過ぎゆく人の
いかに多きことぞ
二度とないこの人生を
いかに生き
いかに死するか
耳かたむけることもなく
うかうかとして
老いたる人の
いかに多きことぞ
川の流れにも
風の音にも
告げ給う声のあることを
知ろうともせず
金に名誉に地位に
狂奔し終わる人の
いかに多きことぞ
生死事大無常迅速
時人を待たず
噫(ああ)
横田南嶺