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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.27
今日の言葉

禅の目指す悟りとは

先日東京大学東洋文化研究所准教授の柳幹康先生のご講義を拝聴することができました。

白隠禅についてのご講義でありました。

柳先生は、花園大学国際禅学研究所客員研究員(副所長)でもいらっしゃいます。

柳先生は、白隠禅師の教えを、

見性、

上求菩提

下化衆生

の三つに要約されて解説してくれました。

見性というのは、自らの本性を見ることであります。

自らの本性というのは、仏性といっても同じことであります。

私たちが本来持っている仏の心に目ざめることにほかなりません。

見るといっても、あらわれる、あらわになると言った方が良いように思います。

そのために、白隠禅師は、公案を用いました。

公案というのは、白隠禅師の場合は、隻手音声というのを用いました。

片手の声を聞けというものです。

これは理論で答えられるものではありません。

分別知識で太刀打ちのできない問題です。

こういう問題に取り組むことによって、一切の妄想や分別意識が、ふるい落とされてゆきます。

大きな疑いだけになってしまいます。

この問題とひとつになりきって、自分と外との区別のない広い大空のような心になるものです。

今までの執着から解き放たれて、なんとも言えない爽快な心境になります。

自他一如の世界に解き放たれるのであります。

そこにとどまらずに、更に複数の公案に参じて、今まで過去の心の悪い習慣を取り除くように努めるのであります。

これが白隠禅師の説かれる上求菩提なのであります。

しかし、いくら自ら悟りを求め続けていても、「我見」が残ってしまいます。

こんなに修行したんだという思いであります。

自分はこんな悟りを得たのだという思いが残ってしまいます。

煩悩の根源はこの「我見」であります。

我という実体が有ると見て自他を分別し、そして更に、他者よりも自己をすぐれているように思って執着してしまいます。

修行してもこの世界に落ち込んでしまう場合がございます。

そこで白隠禅師は、自分のためだけに「上求菩提」を行なうのではなく、他者を救済する「下化衆生」 を行なわなければならないことを力説されたのでした。

柳先生は、「自分のためだけに修行する限り、「自分さえ良ければ」という我欲とその根底に潜む「我見」を破ることができない」と指摘されます。

そこで人々の為に身を惜しまずに法を説くことによって、自他の分別を超えて「我見」を克服することができるようになるというのであります。

他者に法を説き続けることによって、自分さえよければという我見を断ち切ることができるというのです。

法を説くためには、いろんな人に合わせた教えが必要になるので、絶えず学び続けなければなりません。

常に学び続け、常に人の為に法を説き続けて、その循環をずっと続けてゆくのであります。

悟りというのは、どこか特別な心境に達して終わりではなく、この上求菩提と下化衆生の循環を永遠に続けてゆくことなのであります。

自らの道を求めつつ、学び学びつつ、教えを説き広め、これを永遠に続けてゆくのが禅の目指すところであります。

終わりなき精進というのが、強いていえば禅の悟りでありましょうか。

その基盤となるのが、「見性」という本性を見ることであります。

講義の中で、柳先生は、興味深いことを教えてくださいました。

私たちは、公案という理論的に理解することが不可能な問題を与えられて工夫します。

簡単に答えが出ないので、指導者である師家から何度も何度も否定されてしまいます。

否定され否定された末に、心境が開けるというのであります。

そのことを柳先生は、

「人間の共通のあり方として、一つの問題に究極まで突き進んで二進も三進もゆかないところに追い込まれた時に、それまでの分別が瓦解して何らかの体験を得るというのは人間に普遍的な経験なのだと思われる。」と仰っていました。

その具体例として、とある精神科医の方の話を紹介してくれました。

「精神科医が、子供の時に児童虐待を受けていた人たちの症例を集めて報告している本があって、たとえば親に自分がいじめられて、辛くて辛くて、苦しくて苦しくてしょうがなくて、どうしていいかわからなくて、ほんとうにどうしていいか分からない時に、二日三日ベッドの上に横になって天井だけを見ていた。

そのときに何かのきっかけですべてが許せるようになったとか、あと何かのきっかけで世界が一体になって、このままでいいのだと思って、世界があたたかく見えて、それを外からゆったり眺めているように感じるようになり、苦しみが無くなったという報告例」

があるのだそうです。

後で本を調べてみると、『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』 (ちくま文庫)という本であります。

柳先生は、「そういうのをみると、そういう人たちが歴史上あちらこちらでいて、そういう人を仏教では独覚と呼ばれていた」のだろうと推察されていました。

そして「そういった悟りの体験をするために、自分で疑団をおこさないといけないのだけれども、そこまで自分の存在そのものをゆるがすような疑団というのは、普通に生きている限り、普通の人間には持つ機会がないので、なるだけ多くの人が経験できるようにと作られたのが公案であり、その修行が看話禅だ」というのであります。

公案を使った禅問答などは、答えの出ない問題を与えて、二進も三進もゆかない状態に人為的に追い込むものです。

それは、決して無意味なものではなくて、自我を離れて本来の自己の素晴らしさに目ざめるためなのです。

しかし、そんな体験で終わりではなく、まだまだ自我意識、自分中心の思いが残るので、更に公案を参究して、この上ない菩提を求め、自分の悟りを求めるだけでは我見が消えないので、人の為に教えを施すことを永遠に続けてゆくという教えなのであります。

無限の運動なのです。

そうしてみると、鈴木大拙先生が、見性とはと問われて、わしの見性は衆生無辺誓願度だと答えられたこともよく理解できます。

この限りない営みが、禅の目指している悟りの世界ということができます。

 
横田南嶺

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