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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.12.25
今日の言葉

ひとつぶでもまこう ほほえみの種を

ほほえみについて、明治二十三年に来日したラフカディオ・ハーン、小泉八雲は興味深いことを述べています。

なんでも八雲の友人が、横浜で馬に乗っていて、空の人力車と衝突してしまったらしいのです。

俥の一方の梶棒が、馬の肩にぶつかったのだそうです。

車夫に怪我はなかったらしいのですが、馬の肩から血が流れていて、カッとなってしまい、持っていた鞭の柄で車夫の頭をゴツンと殴ってしまったというのであります。

すると、その車夫は、じっとその人を見つめて、微笑みを浮かべてお辞儀したというのです。

友人は

「今でも、あの『微笑』を思い浮かべることができますよ」

というのでありました。

その後友人が八雲に語ったことばが実に興味深いものなのです。

『新編 日本の面影』(角川ソフィア文庫、池田雅之訳)から引用します。

更にその友人は、

「あの時ばかりは、反対に、まるで私がごつんと殴られたような気がしたよ。

あの微笑に私はすっかり参ってしまって、一瞬の内に怒りがすべて消えてしまいました。

それはねえ、実に礼儀正しい微笑といえるものだったんです。

だけどあの微笑には、どんな意味があったんだろう。

怒りに駆られた私が、どうしてあの男を微笑ませることができたんだろうか。

私にはわからないのです」

というのでした。

八雲自身も「その時は、私にもその意味がわからなかった。」と書かれています。

そして、更に「しかし現在では、例の話の時よりもずっと、あの不思議な微笑の意味が、わかるようになった。

日本人は死に直面したときでも、微笑むことができる。現にそうである。

しかし、死を前にして微笑むのも、その他の機会に微笑むのも、同じ理由からである。微笑む気持ちには、挑戦の意味合いもなければ、偽善もない。

従って、われわれが性格の弱さに由来すると解釈しがちな、陰気なあきらめの微笑と混同してはならない。」と指摘しています。

そこで八雲は、

「日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。それはまた、沈黙の言語でもある。」

と書かれています。

そこから八雲の日本人のほほえみについての考察が深まります。

「日本人の微笑を理解するには、昔ながらの、あるがままの、日本の庶民の生活に立ち入る必要がある。

西洋かぶれの上流階級からは、なにも学び取ることはできない。」

と書かれています。

すでに上流階級の人たちには、日本人固有の微笑は失われていたのかもしれません。

更に「日本の子供なら、生まれながらに備わつている、微笑を生む暖かい心根は、家庭教育すべての全期間を通して養われる。しかもそのやり方は、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。」

というように日本人の微笑は長年にわたって躾けられてきたものだということが分かります。

ごく基本的な礼儀であり、作法のようなものなのです。

八雲の考察を更にみてゆきましょう。

「相手にとっていちばん気持の良い顔は、微笑している顔である。

だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれるひとたちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みをむけるのがしきたりである。

そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。

たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。

反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。

好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。」

八雲の目に映った明治の頃の日本人は、そのようにほほえみを絶やさない人たちだったのでした。

八雲は、「こうして幼い頃から、義務として身につけさせられた微笑は、じきに本能とみまがうばかりになってしまう。

最下層の小作人ですら、内面的な悲しみや、苦痛や怒りを表情に表すことは、滅多に有益でなく、大抵は相手に悪印象を与えるだけだと心得ている。」

と書いています。

いつ頃から日本人はほほえまないで、無愛想な表情になってしまったのでしょうか。

松居桃樓さんという方は、『微笑む禅』という本の中で、

「悟りの境地に達した人というのは、「いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむことができる人」と説かれています

そして、仏教の教えを次のようにまとめられました。

一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は
この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、
人間が生まれながらに持っている、
いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす
人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている

というものです。

ほほえめなくなる種は、いろいろあります。

たとえば殺生です。

人の命を奪うことはもちろんのこと、むやみに殺生することはほほえめなくなる種です。

人の物を盗むことも、人を傷つける言葉を口にすることもそうです。

要は、自分がされたらいやだと思うことをしてしまうことです。

そのようなことはしないようにすることです。

ほほえみの種はというと、それは皆が心に持っています。

小泉八雲が指摘されたように、かつての日本人はどんな時であっても、ほほえむことができたのです。

いつでもどこでも誰にでもほほえむように務めることこそ、ほほえみの種をまくことであります。

 
横田南嶺

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