くるしみのこんげん
毎月巻末には、読者からの便りを紹介しているページがあります。
ある方が、私のYouTubeの法話『延命十句観音経の心』を聞いて、毎朝唱えていた延命十句観音経の有り難さに気づかせてもらえたと書いて下さっていました。
いろんな所で、聞いてくださる方がいらっしゃるのだなと思うと、なお一層有り難く感謝します。
一番最後のページにある、
すべての
くるしみのこんげんは
むじょうけんに
ひとをゆるすという
そのいちねんが
きえうせたことだ
という八木重吉の言葉が載っていました。
ひとをゆるすというのは、慈愛の心だと思います。
そして、誰しも人は本来慈愛の心を持って生まれているのであります。
今月号のPHPで、私が書いている「心に禅語をしのばせて」という連載記事について以前紹介しましたが、毎月金澤翔子さんの書と、お母さまの金沢泰子さんの文章とが素晴らしいものであります。
今月号には、「何無」(無って何?)という書が載せられていて、お母さまの泰子さんが、
「翔子は虫を殺せない。
どんなに小さな虫も、蚊さえも殺さない。
今朝、翔子の腕に小さな羽の付いた虫が飛んできて、慌てて瞬間的に払いのけたら、その虫が地に落ちて微動だにしない。
背中を丸めて翔子は「ごめんね、ごめんね」と謝っている。」
と書かれていました。
泰子さんは、その虫は死んだふりをしているのだろうと書かれていますが、翔子さんは、「涙ぐんで蘇生を願い、深く謝る」というのであります。
そして更に「そのうちに翔子がその虫に、お経 (般若心経)を唱えはじめた」というのであります。
命あるものをむやみに殺さないというのは、仏教の戒の根本精神であります。
その戒の根本は、慈愛の心だと以前お話ししたことがありました。
翔子さんのお話を読んで、なるほどやはり、殺さないというのは、命あるものへの慈愛の心だと思いました。
殺すなという命令ではなく、「殺せない」のであり、やむをえず殺してしまった時には心からお詫びするばかりなのであります。
こんな心は誰から教わったというわけでもなく、誰しも人は皆持って生まれているのであります。
先日神渡良平先生とオンラインで対談させていただく機会がございました。
対談の折に、私がかつて管長日記で、セキレイの話をしたことを神渡先生が取りあげてくださいました。
神渡先生が聞いて下さっていたとは恐れ入りました。
なんでも神渡先生は、オーストラリアに住んでいらっしゃる方から教えてもらっというのであります。
私の毎日のラジオ管長日記をオーストラリアで聞いて下さっている方がいるのだと知って驚きました。
セキレイのはなしは、今年の六月十九日に「宇宙の本質は?」という題で書いたものでした。
神渡先生の書かれた「セキレイが教えてくれた宇宙の本質」という文章には心打たれたのでした。
以下、ラジオ管長日記六月一九日(宇宙の本質)から引用します。
「神渡先生の知人の方の話であります。
車で車道を走っていると、車道のセンターラインで一羽のセキレイが何かネズミ色のものをつついており、車が近づいても逃げないそうです。
その方は車を停めてよくみると、ネズミ色のものはセキレイのヒナでありました。
ヒナが地面に落ちて、動けなくなっていたのを、母鳥が必死になって飛び立つように促すのですが、ヒナは動かないのだそうです。
車を降りて近ずくと、ヒナは危険を感じたのか、あわてて動き出し、更にその方がヒナを追い立てて藪陰に逃げ込ませたというのであります。
すると、驚いたことに、その間母鳥は、二度三度と急降下して襲いかかってきたのでした。
母鳥は、小さな身体で、自分の何倍もある人間に体当たりを試みてヒナを守ろうとしたのです。
その方は、セキレイの母性本能の健気さに涙したという話であります。
神渡先生は、そこで、
「そんな体験談を読んで、私はすべての“いのち”が授かっている母性本能について考えさせられました。
人間も動物も小鳥も虫も、生きとし生けるものすべてがみんなそういう愛を授かっている……。
ということは、すべての被造物の根源である天の本質は愛だということになります。
この全宇宙は無機質な伽藍洞(がらんどう)なのではなく、それを貫いてカバーしているものは“愛”に他なりません。
その愛を、自分の人格の創造主として、具現化することが私たちの務めなのだといえましょう。」
と書かれていて感動したのでした。」
という文章であります。
そこに私は、釈宗演老師の言葉を紹介しています。
釈宗演老師の『観音経講話』にある言葉です。
「実は世界中どこもかも観世音の慈悲の海でないところはない」という一文であります。
宇宙の本質は、母が己が独り子を命を賭けても守るような愛であり、慈悲の海なのだと神渡先生との対談で語り合いました。
「世界は慈悲の海だ」と言われてもピンとこないという方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、少し考えてみても、親がなかったら私たちは生まれてきませんし、育つこともできませんでした。
太陽が毎朝上らないと、生きることができません。
空気がないと生きていられません。
大地がささえていてくれないと生きていられません。
水がないと生きていられません。
すべての慈愛の中に生かされているのであります。
そのことに気がついたならば、私自身もまた慈愛の人にならねばならないのであります。
そんな大事なことを見失って、人を許さないというのが、苦しみの根源なのです。
身近の人に、身近な生き物に、身近に咲く花に、まずは慈愛のまなざしを向けることからはじめたいものです。
横田南嶺