道を求むるものあるはさいわいなり
世に母性(はは)あるは
さいわいなり
父性(ちち)あるも また
さいわいなり
世に道を求むるものあるは
さいわいなり
婆羅門の性(みち)あるも
また さいわいなり
という言葉があります。
講談社学術文庫『法句経』にある友松円諦先生の訳であります。
中学生の頃に、ラジオで松原泰道先生の法句経講義を聴いていて、この言葉は分かりやすくて今も、先生のお声と共に覚えています。
世に母あるのはさいわいであります。
父あるのもまたさいわいであります。
そしてこの世に道を求めるひとがあるのも実にさいわいであります。
先日、京都三千院の前のご門跡であられた堀澤祖門大僧正から本を送っていただきました。
同じ日に、知人から昨年お亡くなりになった板橋興宗禅師のカレンダーを送っていただきました。
板橋禅師と堀澤僧正と、共に道を求める人であります。
私も心から尊敬申し上げています。
板橋禅師は残念ながら昨年お亡くなりになりました。
私はご生前一度だけ禅師にお目にかかるご縁に恵まれました。
板橋禅師は、渡辺玄宗禅師のお弟子でいらっしゃいます。
この渡辺禅師というお方は、総持寺の貫首にもなられた方でありますが、円覚寺の宮路宗海老師についても修行された方でありました。
そんなご縁もあって、わずかな時間でありましたが、親しくお目にかかることができたのでした。
板橋禅師と親しい知人がいて、よくカレンダーなどを送っていただいています。
禅師のカレンダーは素晴らしく、禅語などではなく禅師ご自身の言葉とご自身で書かれた画が書かれているのです。
「一人の人を助けおおせたら
人生の目的を
達したと言ってよい」
という言葉もあって、心に響きます。
「笑顔はお日さまより あたたかい ニコニコ ニコ」
という言葉もございます。
カレンダーと一緒に頂戴した『御誕生寺だより』の巻頭には、禅師の言葉が記されていました。
「生きる極意ー底の脱けた生活ー」と題した短い文章であります。
その中に、
「坐禅というと、足を組み、精神統一して、樫の棒でたたかれながら、大変きゅうくつな修行をするように思いがちである。
まずこのような先入観を捨てることが正しい坐禅の第一歩である。
瑩山禅師は、仏道の究極を「平常心これ道」と明言された。
私たちの何気ない平生の一呼吸、一呼吸。耳にし、口にし、肌にふれ、心に思うことがそのまま仏道の全体であるという。
よそ見をしないで、ただ今の自分のいのちに直下に承当している。
この平常心をジカにまなんでいるのが坐禅である。坐禅は平常心に親しみ、平常心を養っている姿である。
無理があってはいけない。全身心を開け放して、からだごと投げ出している姿である。心をしずめようとか、無心になろうとか、つまらぬ心配をしないことが大切である。これを宗門では只管打坐とも言う。
只管打坐でよいんだと、漫然と坐っていると、退屈を感じる。
ウカウカの坐禅でもなく、リキンだ坐禅でもない。
実際には、なかなかきわどい。正しい師について納得のゆくまで参禅し、実究の要するところだ。頭で坐禅の意義をまとめたり、喜びを感じとったりする必要はない。からだ全体でジカに感じている。ここが大切である。」
という言葉がありました。
これだけ、坐禅について明確に言葉で語れるということは、真実に道を求めて坐禅されてこられたからであります。
「ウカウカの坐禅でもなく、リキンだ坐禅でもない。
実際には、なかなかきわどい。」
というご指摘は的確であります。
大概力んだ坐禅になっているか、逆に手放せばいいのだと思ってしまって「ウカウカ」の坐禅になってしまいます。
実にここのところは「きわどい」のであります。
それから、堀澤僧正は今もお元気でいらっしゃいます。
昭和四年生まれの、九十二歳でいらっしゃいます。
『地域人』という大正大学出版会で出されている雑誌に、インタビュー記事が載っているのであります。
誌上に載せられているお写真からも、お元気そのもののご様子がうかがわれます。
堀澤僧正とは、数年来のご縁をいただいています。
はじめてお目にかかったのは、比叡山宗教サミットに参列した時でありました。
儀式が始まる前に、控え室にいると、各宗派の高僧方が居並ぶ中で、ひときわ姿勢がよろしく、格を越えた方だなと思われる老僧がいらっしゃいました。
どなたかなと思っていて、儀式に出たあと、食事の席で、なんとその方の隣りに坐らせていただいたのでした。
それが堀澤祖門大僧正その人でありました。
初対面の私に、堀澤僧正の方から親しくお声をかけていただいて、それからご縁が深まりました。
三千院ご門主をお勤めになっておられた時に、三千院に伺って、仙骨運動や筋力体操を教わってきました。
円覚寺にお越しいただいて対談させてもらったこともございます。
九十歳を越えてもなお道を求め続けておられる方でいらっしゃいます。
対談記事の中にも
「本当の師匠はお釈迦さまだと思っている。
そういう気持ちで入りましたから。それが今でも生きている。
お釈迦さまから見ればまだまだ小僧だという気持ちは当然ある」
という言葉がありました。
板橋禅師や堀澤僧正からみれば、私などはまだまだ小僧のなりたてであります。
道を求める先達にならって、少しでも近づけるように努力するのみであります。
横田南嶺