icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.15 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2021.12.11
今日の言葉

戒は、慈愛から

黄金律という言葉があります。

『広辞苑』には、

「キリスト教倫理の原理。マタイ福音書7章12節「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」を指す」と書いてあります。

先日臘八の大摂心の前に、カトリックの学校で講演をさせていただくという機会に恵まれました。

異なる宗教の教えを学ぼうとされる皆さまのお姿に深く感銘を受けました。

私は、坂村真民先生の詩を紹介しながらお話しをして来たのでした。

カトリックの学校なので、小さいながらも教会もございました。

毎日そこでお祈りを捧げていらっしゃるとのことでした。

献身的に神様に尽くしておられるシスターの方に接すると、ほんのわずかな時間であっても、こちらの心が清められる思いがします。

仏教に比べて、キリスト教の方たちの方が、世の中の苦しんでいる人、困っている人に積極的に手を差し伸べておられるように感じて、頭が下がる思いがしています。

やはり、この黄金律にあるような教えを守っておられるからだと思います。

毎日新聞の十二月五日日曜くらぶに連載されている、心療内科医の海原純子先生の「新・心のサプリ」には考えさせられることが書かれていました。

「それは相手が望むことか」という題であります。

海原先生が、スマートフォンをアップデートなさると、自分が望まないようなサービスがあるという話から始まります。

スマートフォンを作った方にしてみれば、これがあれば便利で助かるだろうと思って改良を重ねるのだと思いますが、使う人によっては、必要のないこともあるのでしょう。

そこで海原先生は、

「「してあげる」時、人は相手がこれで喜ぶだろう、と考えて行動するはずだ。自分がされると嬉(うれ)しいことを相手にしてあげたいと思うのは当然だろう。ただ問題は、相手は自分ではないということだ。それは相手が本当に望んでいることだろうか?」

と疑問を呈されます。

自分がよいと思っていても、相手がそう思うかどうかは分からないのであります。

更に海原先生は

「どんなに親しくても相手と自分は同じとはいえない。だから聞いてみないと、どうかわからない。多くの場合、人は相手がしてほしいと思うことより自分がしてあげたいことをしてしまう傾向があるようだ。家族や友達の場合は、してほしいことかどうか聞いてみながら、自分ができるかどうかを考えるのがいいだろう。」

と書かれています。

自分がされたらうれしいと思うことをしてあげようとするのがお互いであります。
これは致し方のないことです。

しかし、いくら親しくても他人のことは分からないのです。

こんな時には、自分だったら、やさしく声をかけて欲しいなと思って、相手に声をかけてあげたとしても、その人は、こんな時にはそっとしておいて欲しいと思っているかもしれないのです。

そっとしておくことが思いやりになることもあるものです。

下手をすると、「小さな親切大きなお世話」ということにもなりかねません。

仏教伝道教会が作っている『元気になる 日めくり ブッダせいかつ』という日めくりカレンダーがあります。

十二日のところには、

「自分がされたら
いやだなあ、
と思うことは
人にもしない!」

と書かれています。

その解説には、

「かげ口や、いじめ、仲間はずれなど、もし自分が人にされたら、つらくて悲しくなることがあるよね。君が「いやだなあ、つらいなあ」と思うことは、ほかのだれでも同じように感じるんだ。相手の気持ちを考えることをわすれずに、人を悲しませないようにしようね。」

と書いてあって、

その横に、原典の言葉があります。

「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死を恐れる。わが身にひき比べて、殺してはいけない。殺させてはいけない。ーダンマパダ129より」

というものであります。

『論語』にも

子貢問うて曰わく、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の日わく、其れ恕か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿かれ」

とあります。

岩波書店の『論語』にある現代語訳を参照しますと

「子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」

先生はいわれた、
「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」

ということであります。

思いやりというのは、自分の望まないことは、人にしむけないようにすることだというのです。

して欲しいと思うことをしてあげるということよりも随分消極的なように感じるかもしれません。

人にされたくないと思うことはだいたい共通しています。

まず誰しも殺されたくはありません。

暴力もされたくありません。

ひどいことも言われたくありません。

自分の物も盗られたくありません。

そうして考えると、命を奪わない、人の物を盗らない、人を傷つける嘘や偽りを言わないという戒に定められていることは、仏道修行の為であると同時に、相手に対する思いやりであるとも考えられる気がします。

戒定慧の三学が仏道の基本で、戒を守ることによって、禅定が深まり、それによって智慧を得ることが仏道なのです。

智慧からこそ慈悲が出るのであります。

しかし、そもそもこの戒の根本に相手を思いやる慈悲の心があると思うのであります。

 
横田南嶺

戒は、慈愛から

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2110)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ