坐禅は安楽か
この一言は、実に至言であります。
私も十歳の頃から坐禅を始めて、もう四十数年になりますが、ようやくこの頃少しばかり、坐禅は安楽の法門だなと実感できるようになってきました。
それでもまだまだ十分ではありません。
一遍上人の逸話に、お弟子の他阿上人との感動的な問答があります。
ある時、一遍上人は、他阿上人に、
「他阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はうれしきか」と問われました。
すると、他阿上人は、涙を流したのでした。
すると一遍上人も同じく涙を流したのでした。
師と弟子とが、お互いに「南無阿弥陀仏」と念仏することがうれしいという実感がこもっています。
これを臨済宗の者が、もしも「坐禅はうれしきか」と問われて、うれしくて涙を流す人がどれくらいいるだろうかと思います。
なかなか少ないのではないかという気がします。
坐禅と念仏を簡単に比較することはできませんが、やはり坐禅はどうしても修行なので、堪えるという印象が強いものです。
ジッと手を組み足を組んで、辛抱するのが坐禅というものだと思われていることが多いのです。
そこに更には、ぐらぐら動いたり、眠ったりしたら棒で叩かれるとなると、なおのこと、「うれしき」とは言いがたいところでありましょう。
黒住宗忠教祖にも私の好きな話があります。
宗忠教祖がある地方へと布教に出掛けられたときです。
いろいろお祭りに準備をしていて、いよいよお祭りだというときに、
御神酒を供えるのに、飲みさしの酒ばかりで、お供えにする新しい酒のないことに気がつきました。
神道では御神酒を供えることを大切にしています。
そこは、いたって交通の不便なところで、これから買いにゆくのではとうてい間に合いません。
宗忠教祖は、そのことをお聞きになって、
有りがたき 面白き 嬉しきと
みきをそのうぞ 信(まこと)なりける
と一首の和歌をお示しになりました。
そこで、そのままご神前にお供えしてお祭りをお勤めになったという話であります。
黒住教では、よく知られた話であります。
幾たび読んでも、宗忠教祖のお人柄が伝わってくるようで心打たれるのであります。
行住坐臥、
つねに有りがたきという喜
面白きという喜、
そして嬉しきという喜の
三つの喜を大切にすることが
本当の御神酒(おみき)になるのだということです。
この面白きというところを、私は今では楽しいということだと自分なりに解釈しています。
いつも、有りがたい、うれしい、楽しいという気持ちで暮らすこと、これが一番のお供えになるというのです。
坐禅も同じだと思っています。
坐禅することが、有り難い、うれしい、楽しいとなってくるのが本当だと思うのであります。
私なども坐禅がだんだん有り難くなってきます。この忙しい世の中に、毎日坐禅して暮らせるなど、こんな有り難いことはありません。
坐禅は常に新しい自分との出逢いでありますので、うれしいのであります。
そして、ますます楽しくなるものであります。
しかし、『坐禅儀』にも、残念なことに坐禅をして病をしてしまうのが多いと説かれていて、それは用心をよくしないからだと書かれています。
私などは、有り難いことに十歳の頃に坐禅にめぐり合って、この坐禅だけをやってきましたので、長年のやって来たおかげで、膝や腰を痛めたことがないのであります。
多少、腰が張るというくらいのことでありました。
近年は、曹洞宗の藤田一照さんや臨済宗の佐々木奘堂さんとの出会いのおかげで、より一層坐禅が安楽になっていることを実感しています。
奘堂さんには、数年前に出会って、私の坐禅は腰が立っていないと指摘してくださったのでした。
これは実に有り難いことであります。
自分を否定してくれる人こそ我が師なのであります。
それが具体的にどういうことをいうのかは、この度禅文化研究所で発行された『新 坐禅のすすめ』の中で詳しく説いていますので、興味のある方は参照してみてください。
藤田一照さんとの出会いも大きいものでした。
最近もまた一照さんに坐禅を教わる機会に恵まれました。
修行僧達と共に結跏趺坐の組み方について詳しく教わったのでした。
私は、長年坐禅してきても、子どもの頃からやってきたおかげで膝などを壊したことがないのですが、長時間結跏趺坐をしていると膝を痛める方もいます。
膝になにも痛みがないのが有り難いのですが、私も最近になって少し違和感を覚えるようになっていました。
痛みというのではないのですが、違和感程度のものです。
なにかなと思いながらも、人間の足の耐用年数は約五十年だと何かに書いてあったのを見て、五十年以上経つと、あれこれ不具合も起きるのだろうというくらいに思っていました。
奘堂さんに腰を立てることを詳しく教わって、もう腰に張りや凝りを感じることはなくなったものの、新たに膝のかすかな違和感があったのでした。
それが、先日一照さんが、ヨガやピラティスを教えている先生を連れてきて、結跏趺坐の講習を受けて、この問題が解消しました。
股関節、膝、足首にやはり無理な力が入っていたことが分かりました。
どうしても体の構造をよく理解せずにただ無理矢理足を腿の上にのせるだけでは、よくないことが分かりました。
とくに足首をひねって腿の上にあげると、膝によくないのです。
股関節を正しく開いて、正しい位置で膝を曲げて、足首をひねったりねじったりせずに、足の先まで意識が通い、足心という足の裏がはっきりと意識される状態で結跏趺坐をします。
すると本当に調ったのであります。
いろんな方に教えを受けて、また新たに坐禅が深まったと実感しました。
坐禅はありがたく、楽しく、うれしいと思うこの頃なのであります。
自分だけでなく、若い修行僧たちと一緒に学びながらも、彼らにも少しでも、この坐禅が安楽の法門であることを感じて欲しいものであります。
横田南嶺