坐禅の醍醐味 – ひとつになる –
「坐相が安定し、呼吸が落ちついたら、こんどは下腹をゆったりとさせて、およそ善悪というものを思量しないことだ。
もし意識に起こったら、すぐにこれを覚ませるのであり、覚ませば、すぐに意識はなくなってしまう。
このように時を経て、対象的な意識がなくなると、自然と一つのかたまりとなる。是れが坐禅の最も大切な方法である。」
と書かれています。
筑摩書房『禅の語録16』にある現代語訳を参照させてもらいました。
下腹をゆったりとさせるというところは、「臍腹を寛放し」となっています。
このところを、円福寺の政道徳門老師は、このたび禅文化研究所から発行された『新 坐禅のすすめ』のなかで、
「私は最初これを「吐くときに下腹を膨らませたまま吐く『逆腹式呼吸』について言っているんだ」と理解していたのですが、どうも違う。
力が入って坐禅に「計らい」が生まれてしまいます。
やはり、この「寛放」というのは「成り行きに任せる」という意味に取るべきです。
そうするとこの箇所は逆腹式呼吸ではなく、やはり順腹式呼吸(普通の腹式呼吸)について言っていることになります。要するに、呼吸の出入にしたがって自然に臍腹が膨らんだりへこんだりするのに任せておく。
呉々も呼吸に対して「計らわない」ということが肝要です。」
と解説してくださっています。
「寛放」という言葉から、このようにとらえるのがよろしいかと思います。
ただ私は、現代の暮らしをしているものは、どうしても頭にばかり血が上ってしまい、頭中心になっていますので、最初は、意識して下腹に注意を向けることも必要だと考えています。
はじめのうちには、意識的にでも、下腹に意を向けて、力も込めて下腹の力を抜かないように、呼吸して、そのことによって全体のバランスを保つようにします。
その上で、下腹から意識をゆったりと解放し、ただ出入りの息に任すようにするのがよろしいかと思って指導しています。
「もし意識に起こったら、すぐにこれを覚ませるのであり、覚ませば、すぐに意識はなくなってしまう。」というのは、原文では、「念起こらば即ち覚せよ、之を覚すれば即ち失す」となっています。
この言葉は、今日マインドフルネスの説明にも用いられることがあります。
念は雑念です。
雑念が起こっても嫌ったり、払おうとしなくてもよいのです。
ただそのことに気がつくのです。これが「覚」です。
気がつけば自然と消えるのです。
念の起こるは是れ病、
続がざる是れ薬
という言葉もあります。
雑念が起こるのは、自然現象のようなもので、仕方のないことです。
ただその念を続けなければいいのだというのです。
起きた念をそれ以上に続けないことこそが、薬なのです。
政道老師の説かれる「妄想を嫌い、妄想と葛藤しないよう注意します。たとえ何が思い浮かぼうとも、それに対して善悪の判断をせず、気付いたら淡々と手放していきます(再び呼吸を観ることに戻る」ということなのです。
雑念は起こるに任せ、消えるに任せることを説いたのが盤珪禅師でした。
盤珪禅師は、血で血を洗うようなものであるという譬えを使っておられます。
血で衣類か何かが汚れた、それを血で洗おうとすると、前の血は落ちても、洗う血で汚れるのだという譬えを出しておられます。
汚れを取ろうとか、雑念をなくそうなどというのが、新たな雑念なのです。
それよりも自然と消えてなくなるものなのだから、そんなものにはとらわれないのです。
仏心には、何ら影響はないということに気付いていることが、大事だというのです。
たとえ雑念が山のように湧いたとしても、仏心には傷一つつかないのと同じですから、起こらないのと同じことと説かれました。
なんの妨げにもならないというのです。
いかに雑念がおこっても何ら問題がないとわかっていれば、雑念を払おう、断じようという新たな念を作ろうとする必要はない、雑念を払おうという念は一つも必要ないのであるという教えなのです。
盤珪禅師の教えでは、私たちが本来持って生まれた仏心は、本来鏡のようなものですから、何が映ろうと、清らかになるわけでも、汚れるわけでも、増えるわけでも減るわけでもないのです。
そのことがわかっていれば、何が映ろうと、消えてなくなろうと、全くとらわれることがありません。
映れば映るまま、消えれば消えるまま、どんなに雑念が山のように湧いたとしても、私たちの心の本体には影一つついてはいないのです。
藤田一照さんが、いつも私たちに「感覚をとらえようとするのではなく、感覚が湧き上がるにまかせる」と説かれるのは、そこのところです。
一照さんは、「何らかの対象に注意を向けること、集中することではなく、
対象が気づきのなかに。現れるまままにする」
と説かれています。
「長空礙えず、白雲の飛ぶを」という禅語も、其の消息であります。
大空には、いくら雲が飛んでも、たとえ嵐が来ても、何事もないのです。
円福寺の老師は、
「呼吸の成りゆきに身と心を任せ切ることによって智慧が生じ始めます。智慧が生じてくると、呼吸の本来の姿を生き生きと観るようになります。
この訓練によって、やがて心に生じる一切のものに対して善悪の判断をしたり、執着したりするということがなくなっていき、
「一度生じたものが自然に滅し、次に生じたものも又滅する……」
ということが淡々と繰り返されるようになります。ここに至って、嫌うべきものは何もなく求めるべきものも有りません。
全てが滞りなく、自然の法則に順って進んでいきます。
人間の計らいの及ばない世界です。」
と解説して下さっています。
このように修練してゆくと、対象的な意識がなくなって自然と一つのかたまりとなる」というのです。
「打成一片」という言葉を禅ではよく使います。
一枚岩のようにひとかたまりになったところです。
自己の内と外とがひとつになります。自と他とがひとつになるのです。
このひとつになったところが、坐禅の醍醐味でもあります。
そうしますと、『法句経』にある
一かかえほどの盤石(いわいし)、風にゆらぐことなし。かくのごとく、心あるものは、そしりとほまれとの中に、心うごくことなし。(81番)
底深き淵の、澄みて静かなるごとく、心あるものは、道をききて、こころ安泰(やすらか)なり。(82番)
という心境になるものです。
横田南嶺