日が出て起き、日が沈んで休む
霜や雪に堪えて千年の翠を保っている松の木と、村の老人達が、津々浦々の春、花を手にして楽しんでるという意味であります。
これは、『臨済録』に出てくる言葉であります。
臨済禅師が、大慈和尚のところへ行った時の問答です。
岩波文庫の『臨済録』(入矢義高訳)を参照します。
大慈和尚のところに行った時、大慈は居間で坐禅していた。
師「居間に正坐しての御心境はいかがですか。」
慈「寒中の松は千年もその独自の緑のまま、しかし津々浦々の春ともなれば花を手に野老は遊ぶ。」
師「わが円かな本覚の内実は古今を超えて永遠、しかも万重の関門によって閉塞された三山のごとく隔絶。」
大慈はそこで一喝した。師も一喝を返した。
慈「それがどうした。」
師はさっと袖打ち払って立ち去った。
ということです。
これをみても分かるように、『臨済録』にあるといっても臨済禅師の言葉ではなくて、大慈和尚の言葉なのです。
山田無文老師の提唱を拝読してみましょう。禅文化研究所発行の『臨済録』を参照します。
「寒松一色千年別なり、野老花を拈ず万国の春」
松は寒中でも青々と繁っておる。春夏秋冬、一色である。この千年の老松は、他の植物とはたいへんな違いである。丈室に端居したところは、師中の師だ。天上天下唯我独尊というところだ。野老花をず万国の春。正月になるというと、みんなが賀扇を持って出て来る。
「俺がここに坐っておるのは、天上天下唯我独尊というところだわい。すると、おまえさんのようなものが出てきて、ご挨拶に来るわい」えらい見識だ。
というのであります。
「寒松一色千年別なり」は、この一句だけで禅語として用いられます。
この句は『論語』にある、
「子の曰わく、歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る。」の意をとっていると、新国訳大蔵経『臨済録』にある、衣川賢次先生の解説であります。
「気候が寒くなってから、はじめて松や柏が散らないで残っていることがわかる」という意味です。
そこから、「人も危難のときにはじめて真髄が分かる」ということを表しています。
『虚堂録』には、
「雪後始めて知る松栢の操、
事難くして方に見る、丈夫の心。」
という言葉もあります。
雪が降ってはじめて松や柏が色の変わらないことが分かり、困難なことにであって、そこではじめて本当の人間の値打ちが分かるということです。
それから「野老花を拈ず、万国の春」は、「撃壌歌」の意を汲むと言われます。
中国の神話に登場する堯帝は、「其の仁は天の如く、其の知は神の如し。」といって、その仁徳は天のようであり、その知恵は神のように聡明であったというのです。
『十八史略』によれば、「宮殿の屋根は、かやぶきで軒先は切りそろえず、宮殿に上がる階段は土で築いた三段だけであったというように、実に質素な暮らしをされていました。
堯帝は、天下を治めること五十年になりましたが、世の中が治まっているのか、治まっていないのか、万民が自分が天子であることを望んでいるのか、自分が天子であることを望んでいないのかがわからなかったのでした。
側近にきいてもわかりませんし、誰にきいてもわかりませんでした。
そこで身なりをやつしてにぎやかな大通りに出かけてみました。
すると、とある老人が、口に食べ物をほおばり腹つづみをうち、足踏みをして調子を取りながら歌っていました。
その言葉が、
「日出でて作し、日入りて息ふ。
井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」というものでした。
「日の出と共に働きに出て、
日の入と共に休みに帰る。
水を飲みたければ井戸を掘って飲み、
飯を食いたければ田畑を耕して食う。
帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。」という意味です。
この老人の歌は一見すると堯帝をけなしているように聞こえますが、これを聞いた堯帝は、国民に帝のことなど意識させることなく、国民が豊かな生活を営むことを実現できていることを知って満足したのでした。
大慈和尚が、どんな時代になろうと変わることなく方丈内にどんと坐って、大自然と共に満ち足りた暮らしをしていることを表現したのでした。
しかし、臨済禅師は、それでは高尚すぎて誰も近寄れないぞと、難じたのがこの問答です。
この鼓腹撃壌の歌などは、人間の本来のあり方を示しているようにも思われます。
かつて人間は皆こんな暮らしをしていたのでした。
お日様が上れば、自然と起きてはたらいて、喉が渇けば井戸水を呑み、畑を耕しては食べていたのでした。
そしてお日様が沈めば休んでいたのでした。
今でももしみんながこのような暮らしをしたならば、エネルギーの問題も多くの人の心の病なども治まるように思います。
もっとも実際にはとてもそのようには暮らしてゆけないのが現代社会であります。
しかしながら、その現代社会でもしもつまずいたり、行き詰まったりしたときに、一度朝日の出を感じて起きて、日の入りと共に休むような暮らし、昼間は精いっぱい畑を耕して汗を流し、喉が渇けば井戸水を呑み、そして夜ぐっすり眠るという暮らしをして、人間の本来性を確認してみるのもよろしいかと思います。
松はどんな時にも色を変えないように、人間にはどんなに社会が変化しても変わらぬものが残っているはずであります。
横田南嶺