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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.10.09
今日の言葉

どこから来たのか?

『虹天』という冊子を、毎月滋賀県の高校教師の方から送っていただいています。

毎月勉強会をなさっていて、その講演録などを掲載されています。

このたび、その誌面の企画で、「初めて会う人に質問してみたいことは何ですか」という質問をいただきました。

何名かの方がその質問に答えているのであります。

私もその質問をいただきました。

私は、まず、「どちらからお見えですか?」と尋ねますと答えました。

その質問から、もしも、先方が和歌山県から来ましたというのであれば、「そうですか、実は私も和歌山県の生まれです。和歌山県のどの辺ですか」と更に聞いて話を展開させてゆきます。

また「京都からきました」というのであれば、「京都ですか、私は今京都のある大学の総長を務めていて、毎月京都に行っています。京都のどの辺りですか」と聞くのであります。

このたびの『虹天』誌面によると、「どちらから来られましたか」という質問が、最も多かったというのでした。

「この質問は人間関係を一番和ましてくれる」という言葉もございました。

「どこから来たのか」という問いは、実は禅問答でも最初によく問われるものであります。

そのことを書きましたところ、『虹天』にも取りあげてくれていました。

「どこから来たのか」から始まる禅問答で、有名なのが『無門関』の第十五則「洞山三頓」であります。

雲門禅師(864~949)と洞山(守初)禅師の問答であります。

原文の漢文は難しいので、駒澤大学の小川隆先生の『中国禅宗史』にある現代語訳を引用させていただきます。

「洞山守初が行脚してきて、雲門に参じた。
雲門、「ここへ来る前はどこにおった?」
洞山、「査渡です」
「夏安居はどこでやった?」
「湖南の報慈でございます」
「いつ、そこを発った」
「八月二十五日です」
ここで雲門がいきなり、はげしく怒った。
「本来なら、三頓ものだ!」
洞山は、翌日、雲門の前に伺候し、あらためて問うた、
「昨日は、特に三頓棒を免じていただきました。しかし、それがしのドコに、それほどの罪があったのでしょうか?」
すると雲門は、昨日にもまして、激しい勢いでどなりつけた。
「このムダメシ食いが! 江西・湖南をまったくこんな調子で渡り歩いておるとは!」
洞山は、ここで大悟した。」

というものであります。

小川先生は、この問答を引用して、

「初めての相見で、両者は問答をする。僧のほうからいきなり挑戦的な問いをぶつける場合もあるが、通常は、老師のほうから名前や出身地・修行歴などを問い、修行僧がそれに答えてゆく。だが、一見、通常の面接のような問いの裏に、実は、禅的な問いが秘められている。こうして行脚して歩いている汝その人、それはつまるところ何者であるか、これまでの修行で自己というものを如何に捉えてきているのか、と。それに気づく僧もあれば、気づかずに表面的な回答に終始する僧もある。」と解説して下さっています。

禅問答の場合は、お互いの人間関係を和ませる為という訳ではなく、「どこから来たのか」という問いによって、行脚してやってきたその人、自己とは何かを問うているのであります。

六祖慧能禅師と南嶽禅師の問答などは、もっと端的に問うています。

六祖禅師が、南嶽禅師に、「何ものがこのようにやって来たのか」と問いました。

こうしてやって来たのは何ものかというのであります。

名前や経歴を答えてすむものではありません。

なんと南嶽禅師は、この問題を八年にわたって考え続けます。

考えた末に出した答えが、

「説似一物即不中」という言葉です。

『禅学大辞典』には「説似」は

「誰かにたいして説き及ぼすこと」「何かについて説き及ぶこと」という説明があり、

「説似一物即不中」は

「言語で説明しようとしても真意を述べることができない」、「本分のことは説明したとたんに的外れだ」と解説されています。

なんともかとも言いようがないのであります。

以前にも紹介した良寛さんの漢詩を思い出します。

良寛さんの漢詩に、

我が生、何処より来たり
去って何処にかゆく。
独り蓬窓の下に坐して
兀兀と静かに尋思す
尋思するも始めを知らず
焉んぞ能くその終わりを知らん
現在亦また然り
展転として総ては是れ空
空中にしばらく我有り

という句があります。

私たちはどこから生まれて来たのか、死んでどこにゆくの分からないのです。

分からない中にこうして生かされているのです。

人に対して尋ねるのではなくて、時には自らに対して、どこから来たのかと尋ねてみることもよいと思います。

真言宗の白川密成さんとお話したことがあります。

白川さんの著書『ボクは坊さん』の中に、白川さんが、近所のおばあさんのお通夜で語った言葉が記されています。

『ボクは坊さん』から引用させていただきます。

「若い頃から、何人ものお葬式を拝んでいる時に、生まれる前の感じと、死んだ後の感じって似ているんじゃないかな、と感じることがあるんです。

そして、それが一番、普通の状態かなって思うんです。だから、生きている。というこの時間は、僕たちが感じている以上に、とても短い、すごく特殊な時間のような気がしてしまいます」

ざわざわしていた集まった人の中で沈黙が訪れた。誰かが「そうかもしれんねー」と声を出した。

「僕は、なんだか生きていることはお祭りみたいだと思うんです。だから明日は、お祭りを終えたおばあちゃんに、またね、とか、おつかれさまと手を振ってあげたいと思います」

準備をしていった話ではなかったけれど、そんな言葉がすっと出た。

「起るを生と名づけ、帰るを死と称す」(弘法大師空海『遍照発揮性霊集』巻第四)」

と書かれています。

なにも無いところから、生まれて来て、何もないところへ帰ってゆく、人生はその間のひとときのお祭りみたいだというとらえ方がいいなと思うのであります。

さて、ではお互いはどこからやって来て、どこに行くのでありましょうか。

 
横田南嶺

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