苦しみの原因は何か
『広辞苑』では、
「仏教の根本思想で、三法印の一つ。
万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ。
また、雪山偈の初句。」という解説がございます。
「三法印」とは、岩波の『仏教辞典』で調べると、
「仏教教理の特徴をあらわす三つのしるし。
あらゆる現象は変化してやまない(諸行無常)、
いかなる存在も不変の本質を有しない(諸法無我)、
迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである(涅槃寂静)の三つをいう。
これに<一切皆苦>を加えて<四法印>とすることもある。」
と解説されています。
雪山偈というのは、
諸行無常
是消滅法
消滅滅已
寂滅為楽
という言葉であります。
『仏教辞典』にある訳をみますと、
「作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする。生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである」ということなのです。
『仏教辞典』による「諸行無常」の解説は、
「三法印(さんぼういん)の一つ。
<諸行>とは、すべての作られたもの、あらゆる現象の意。
仏教では、われわれの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因縁)が働くことによって、現在、たまたまそのように作り出され、現象しているに過ぎないと考える。
ところが、いかなる一瞬といえども、直前の一瞬とまったく同じ原因の働くことはありえないから、それらの現象も同一ではありえず、時の推移とともに、移り変わってゆかざるをえない。この理法を述べたものが<諸行無常>である。」
と書かれています。
「諸行」という言葉の意味が難しいのです。
『広辞苑』では、単に「万物」としています。
『仏教辞典』には、「すべての作られたもの、あらゆる現象、われわれの認識するあらゆるもの」ということであります。
単にあらゆるもの、万物が変化してやまないということならば、それは何もブッダでなくても、古代ギリシャの哲学者も同じようなことを述べています。
すべてのものが移り変わるということが分かれば、それだけで苦しみがやむとは考え難いものです。
この「行」という言葉が問題なのです。
「行」は、梵語のサンスカーラを訳したものです。
それは、「形成力、形成されているもの、あるいは形成されたもの」を表します。
そこで作られたものは移り変わると訳されることもあります。
仏教の大切な教えに、「五蘊」がございます。
色受想行識の五つであります。
お互いはこの五つの集まりによっているのであります。
「色」は身体です。身体には、眼耳鼻舌身意という感覚器官が具わっています。
その感覚器官が外の世界に触れて感じるのが「受」です。感受であります。まずは、快か不快かを感じるのです。
感じたことに対して想念を起こします。それが「想」です。快なるものには、喜びを感じ、不快なるものには、怒りを思います。
その思いが更に意志になります。喜ばしいものを愛し、もっと欲しいという意志になります。怒りの対象を更に憎み排除したり攻撃しようとするのです。
その結果、外の世界を、真と偽、善と悪、美と醜というように色づけをして認識するのであります。
この中で迷い苦しみを引き起こすカギとなるのが「行」であります。
見たり聞いたりしたことに、快不快を感じることや、喜怒の想念を起こすのは自然のはたらきであると言えます。
ただそのことを更に強い意志へと形成してゆくのが「行」であります。
私はよく譬え話ですることがあります。
一休さんがお伴のお坊さんを連れて旅をしていて、うなぎ屋の前を通りました。
いいにおいがしてきますので、一休さんが「いいにおいだ、おいしそうだ」と言います。
それを聞いたお伴のお坊さんは、「一休さんともあろう方が、なんということを言うのか」と腹を立てました。
旅をしている道中もずっと、腹を立て続けていました。
次の茶店に着いたときに、とうとうお伴の僧が一休さんに、先ほどウナギ屋の前で、いいにおいだなどと言うのはどういう訳でしょうかと問いただしました。
一休さんは、笑って一言、「なんだあなたはまだウナギのことを思っていたのか」と。
感受までは自然のはたらきですが、そこからあれこれと思い続けて、思いを形成してゆくのです。
嫌なことを言われたとしても、本当はその一瞬なのですが、あとあとまで悔やみ続けてしまうのです。
ですから、この「行」というはたらきを無常であり、空であると見ることによってこそ苦しみから解放されるのであります。
今北洪川老師は、「諸行無常」の「行」とは、この五蘊の「行」なのだと説かれています。
私もその通りだと思っています。
洪川老師の著書でその解説を読んで深く納得したことでありました。
最近春秋社から、羽矢辰夫先生の新著『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』という本が出版されました。
本のオビに「無常も因果もあたりまえ。ならばゴータマ・ブッダの真意はどこにあるのか?行(サンカーラ)がわかれば、十二因縁も無常・苦・非我の四諦も分かる!」とありますように、「行」という言葉に注目した本です。
羽矢先生は、行を「ばらばらに分離され孤立した自己を形成するもろもろの力(行)がはたらいて、固定的で実体的な「わたし」が変わることなく永遠に他と関係なくそれだけで存在するかのように思いこむ自他分離的自己が形成される」
ことと解説されているのです。
この本には学ばせてもらいました。
これこそが、苦しみを生み出す原因なのだと説かれています
この「自他分離的自己を形成する力」を静めるのが瞑想だというのであります。
そこで、自他分離的自己を形成する力が静まると、自己は
「自他融合的自己」として現われてくるのだと説かれています。
そうすると、「自己中心的な欲望は消失し」、
新たに自他融合的な欲望が現われてくるというのです。
それは、慈悲として現れると説かれています。
このすべては融合してつながっているのに、自他を分離して、孤立した自己があるという思いを作り上げるのが「行」だという解釈なのです。
これはなるほどと感服しました。
これが苦しみの原因です。
この形成する力、「行」を静めるのが修行なのであります。
これが無常であり、空だと智慧をもって見るのであります。
そのことによってのみ苦しみから解放されるのであります。
この羽矢先生の本には学ばせてもらいました。
横田南嶺