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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.10
日曜説教

【日曜説教ライブ配信(9/12)】いのちなりけり

臨済禅師のある時のお説法にこういう言葉があります。

「赤肉団上に一無位の真人有り」というのであります。

どういう意味かと申しますと、

「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる」ということなのです。

しかも、それが顔から出入りしているというのです。

まだ確認していない者は、今こそ看とどけよというお説法なのであります。

真人というのは、仏教では仏といっても同じであります。

仏とは遠くにあるのではないのです。

高いところにあって私たちは、それにひれ伏して伏し拝むというのではないのであります。

私たちの裸一貫のこの身に具わっているというのです。

それが顔から出入りしているということは、目でものを見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったりしているはたらきをいいます。

それなのに仏が外にいると思って、或いは真理はどこか遠くにあると思って、外に向かって探しもとめます。

そういうことに対して、臨済禅師は、「君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師や仏と同じである」というのであります。

仏法は、すでにお互いに十分に具わっているのであります。そのことが信じ切れないで、外に向かって探し求めることを戒められたのでした。

銘々が生まれながらに具わっているもの、それは言葉を変えると、この「いのち」でありましょう。

この「いのち」について、語りたいと思っています。

 
横田南嶺

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