水の中で水を求める
慧超という名の僧が、法眼和尚に質問しました。
仏とはどのようなものですかと。
法眼和尚は答えました。
あなたは慧超だね。
これだけの問答であります。
圜悟禅師は、評唱の中で、これは「牛に騎って牛を覓めるようなものだ」という言葉を引用されています。
牛に騎って、牛を探すというのは、なにも今騎っている牛よりももっと良い牛を探そうというわけではありません。
よくメガネを頭に乗せておいて、メガネを探すという笑い話がありますが、あれと同じなのです。
牛がどこにいったかと言って、牛に騎って探しているというのです。
騎っかっているのが、その牛だと気がつけばいいのであります。
似たような言葉はいくつもあります。
丙丁童子来求火というのも同じであります。
丙丁はともに火のことです。火の神さまが火を求めるということであります。
驚きますでしょう、突然火の神さまがやってきて、火を貸してくれませんかと言われたら。
火の神さまですから、全身火のようなものなのです。
それが隣の家に行って、マッチを貸してくださいというようなものです。
そう頼まれたら、なんと答えればいいでしょうか、こう言うしかないでしょう。
「あなたが火ですよ」と。
白隠禅師が、水の中にいて渇を叫ぶが如くなりと詠いました。
水の中にいて、喉が渇いたから水をくださいと頼むようなものだというのです。
まわり全部が水だと気がつかないのであります。
『臨済録』には、演若達多の話が出てきます。
「演若達多、頭を失脚す、求心やむ処即ち無事」というのであります。
平田精耕老師の『禅語事典』に「牛に騎って牛を求む」の言葉の解説があって、このことが詳しく説かれていますので紹介します。
「昔、演若達多という男が、自分の顔を求めて探し回ったという、有名な仏教のたとえ話があります。
演若達多という男は、たいへんな美男子で、毎朝鏡で自分の顔をみて、にきびをほじくりながら、なんてオレは男前なんだろうと自分の顔を楽しみ、かつ喜んでいたといいます。
ある日も、例のごとく鏡を見ましたが、自分の顔が映っていませんでした。
あわてていたために鏡の裏を見ていたのです。
それに気づくこともなく、私のあの美しい顔はどこへ行ってしまったんだと、男はあわてふためいて町中を探し回ったのでした。
そのときある男が「何してるんだ?」と聞くと、「いや、わたしの顔が、あの美しい顔が、表看板の美しい顔が、どっかへ行ってしまったので探しているんだ」という。
その男が、「お前の顔はちゃんとあるではないか」と教えてやったら、ああ、そうかといって安心したという話です。」
というのであります。
小田原の大雄山に余語翠厳老師という方がいらっしゃいました。
私も尊敬申し上げる禅師様でありました。
この禅師のご著書には大きな影響を受けました。
禅師のご著書『安心の生き方』に、
「仏教の道にいる人間が“悟り、などと言うと、大変なことのような気がするかもしれません。
何年もの間、修行に修行を重ね、ようやく到達できる境地。
いや、それでもまだ、たどり着けない高みに悟りというものはある。
おそらく、そんなふうに受け取られているのではないか、という気がします。
しかし、悟りというのはそんなに仰山なことではないのです。
要するに、気づくだけのことなんです。
そうすると今度は、何に気づくかが問題になってくる。
何でも難しくしなければ安心できないのが人間ということですな。
何に気づくか。
気づいても、気がつかなくても、変わらない事実に気づく。
そういうことです。
気づけばそれでいい。
しかし、気がつかなくても、それはちっとも変わりはしない。気がついたからといって、どうということはないのです。
事実というのは、気づく、気づかんに関わりなく、そこに厳然としてあるものです。
そういうことがわかってくると、安心できます。
天地いっぱいの自分が事実としてそこにある。
それがわかれば、オロオロすることもなくなってきます。」
という言葉があります。
この「気づいても、気がつかなくても、変わらない事実に気づく」という一言には、私も我が意を得たりの思いなのです。
これほどまでに明確に言葉で表現できるのだと感服します。
また禅師の『人間考えすぎるから不自由になる』という本には、
「「いまの自分は本当の自分ではない」
「こんなことは本当はやりたいことじゃないのだ」
などと逃げていると、碌なことにはなりません。
天地いっぱいの命が現われている人間というものは、それだけですごいものなのです。
なにもしなくても耳から音は聞こえてくるし、鼻は呼吸をしている。目は物をちゃんと見ている。こんな尊いことはありません。」
というのであります。
なにか盤珪禅師のお説法を思わせます。
盤珪禅師が気付かれた「不生」ということを、余語禅師は、
「不生というのは、ちゃんとそのままでという意味とうけとればいい。
すべて物はそのままにちゃんと整っているということがわかったわけだな。
明徳を明らむるということは、この世の中のすべてはそのままに整っているということに気がつくことだったのだ、と永琢和尚は納得がいったということでしょう。」
と明確に示されています。
不生の仏心の中に生かされていながら、そのことに気がつかずに、仏心をどこかにあると探し求めているのがお互いのであります。
なにも外に探さなくても、この一呼吸に不生の仏心が、天地のいのちが現れているのであります。
横田南嶺