八雲がいたら – 日本人の微笑 –
冒頭に、
「ちょうど今ごろの時期だろうか。「怪談」などで知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が明治期、山陰地方の漁村を訪ねた時のことを書いている。
『無数の白い手が、何か呪文でも紡ぎだしているかのように、掌(てのひら)を上へ下へと向けながら、輪の外側と内側に交互にしなやかに波打っているのである。それに合わせて、妖精の羽根のような袖が、同時にほのかに空中に浮き上がり……』 (池田雅之訳「新編 日本の面影」)
池田雅之先生の訳は素晴らしいものです。
これは盆躍りの光景なのです。
『日本の面影』には、この「ほのかに空中に浮き上がり……」のあとに、
「本物の翼のような影を落としている。足もすべて一緒に、繰り返し繰り返し動くので、それらの動きを眺めていると、キラキラ光る水の流れをじっと見ているような、まるで催眠術にでもかかったような感じがしてくる。」
と書かれています。
記事には、
「月明かりの下で見た盆踊りの美しい光景。八雲は「薄明の神代の時代から存在したもの」を目にした気持ちになったようだ。
八雲がなぜ日本の文化に共鳴し、心に刻んだのか。少なくとも言えるのは、五感全てで日本に触れた国際人だったということだ。」
記事の終わりには、八雲が最期を迎えた大久保の地に立つ八雲記念公園に触れています。
そして「多国籍化が進んだこの街に、ヘイトスピーチの嵐が吹き荒れた。対策法が施行されて5年。街宣活動は減ったが、インターネット上では収まる気配がない。」
と書かれていました。
そのあとに、
「八雲は「日本の面影」に、松江を離れる時の気持ちをつづっている。
『もしどこか別の国で、同じ期間、同じ仕事をして暮らしたとして、これほどたゆまぬ温かな人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか』
明治の人情があったからこそ、八雲は日本を愛した。今この国に住んでいたら、彼の五感は何に触れ、何を愛せたであろう。」
と書かれているのでした。
八雲が日本を訪れたのは、明治二十三年、1890年のことでした。
その年の夏に島根県の松江に来て住んでいます。
『日本の面影』には、その当時の日本人がいつも微笑みをたたえていることに注目されて「日本人の微笑」について書かれています。
横浜に来たこともある八雲の友人が、八雲が日本に来る前に言ったそうです。
「私には、どうもあの日本人の微笑というやつが理解できないのです」と。
その人は、横浜で馬に乗って走っていて、空の人力車とぶつかってしまいました。
馬がけがをして血を流していたことからカッとしてしまい、人力車を引いていた車夫を鞭で打ちすえたのでした。
すると、その日本人の車夫は、
「私をじっと見つめ、微笑みを浮かべ、そしてお辞儀をしたんです。
あの時ばかりは、反対に、まるで私がごつんと殴られたような気がしたよ。あの微笑みに私はすっかり参ってしまって、一瞬の内に怒りがすべて消えてしまいました。
それはねえ、実に礼儀正しい微笑みといえるものだったんです。
だけどあの微笑には、どんな意味があったんだろう。
怒りに駆られた私が、どうしてあの男を微笑ませることができたんだろうか。私にはわからないのです。」
と書かれています。
八雲は日本人の微笑みについて、
「日本人の微笑を理解するには、昔ながらの、あるがままの、日本の庶民の生活に立ち入る必要がある。」と考察しています。
「生にも愛にも、また死に対してすらも微笑を向ける、あの穏やかで親切な、暖かい心を持った人たちとなら、ささいな日常の事柄についても、気持ちを通じ合う喜びを味わうことができる。そうした親しみと共感を持つことができたなら、日本人の微笑の秘密を理解することができるのである。」というのです。
そして八雲は
「相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みを向けるのがしきたりである。
そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。
たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凜とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。
反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。
さらに愚かなことには、自分に好意的でない人々の、意地悪な気持ちをかき立ててしまうことだって、ありえるからである。
こうして幼い頃から、義務として身につけさせられた微笑は、じきに本能とみまがうばかりになってしまう。」
と書かれているのです。
そうして、更に
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。
人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。
そんなわけだから、日本の社会では、嫌みや、皮肉や、意地の悪い機知などは通用しない。洗練された生活には、そういうものは存在しないとさえ言えるかもしれない。」
と書いています。
「嫌みや、皮肉や、意地の悪い機知などは通用しない」どころか、存在しないとさえ言っているのであります。
あれから、百三十年、日本人の微笑みはどうなったでありましょう。
微笑まない人が増えたのではないでしょうか。
それどころか、嫌みや皮肉、差別や憎悪が、広がっているようにも思われます。
いつどこで微笑みを失ってしまったのでしょうか。
八雲が、神代を感じた盆踊りも、円覚寺では昨年同様にこの夏も行えないのであります。
今八雲がこの日本を見たらどう思うか、考えさせられたのでした。
横田南嶺