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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.08.20
今日の言葉

ようこそとありがとう

念法眞教という教団があります。

開祖が、小倉霊現という方であります。

この方が大正十四年に立教開宗した仏教系の教団であります。

小倉霊現師は、明治十九年にもと河内木綿を扱う商家にお生まれですが、独自の霊験を得て、教団を開かれたのでした。

この小倉霊現師が、円覚寺の朝比奈宗源老師と仲よくしておられたそうです。

そんなご縁で、先代の足立大進老師も私も念法眞教様とのご縁が続いています。

機関誌『鶯の声』を送っていただいています。

小倉霊現師は、昭和五十七年に九十七歳でお亡くなりになっていますが、今も毎号、巻頭には、小倉霊現師の言葉が載せられています。

九月号の巻頭には、

「あんた、息してますか?」という題であります。

「あんた、自分で息してますか」聞いたら、たいていの人は「はい、してます」言いよる。

「そんなら、いつまでも死にまへんな。百歳でも二百歳でも好きなだけ生きられますやろ」と言うと、
「それはでけへん」言うねん。
自分で息しているのやったら、ずっとしてたらええ。ずっと生きられるはずや。
それが出来ん言うのやったら、自分で息しているのと違うがな、
息は入れてもろとるのや。呼吸はさせてもろてるねん。」

と書かれています。

自分で息をしているのではないと聞くと驚くかもしれませんが、実はその通りであります。

呼吸法などを一所懸命にやっていると、自分でやっているように思いますが、そうではありません。

小倉霊現師は、更に

「それで、寿命が切れたら、息は入れてもらえへん。
ハアハア出すばっかりや。それで、あの世へ往くねん。
ところで、その息は誰が入れてんねん。
何のために入れてくれてんねん。それ知ってますか?
こない聞いたら、みんな目を白黒させよる。
考えたことないねん。
大学まで行って勉強してもわからへん。
魂の親様が息を入れて下さってるのや。
ご飯もそうや。
「あんた、自分でご飯食べてますか」聞いたら、「はい、食べてます」と答えるねん。
「自分の力でご飯食べてるのなら、一週間分でも二週間分でも食いだめでけるか」聞いたら、「でけへん」言うねん。
おかしな話や。自分で食べてるんやったら、それがでけて、当たり前と違うか。
自分で食べてるのやない。神さん仏さんに食べさせてもろてるのや。」

と書かれています。

実に平易な言葉でありますが、真理であり、奥深いものであります。

こういう分かりやすい言葉で教えを説かれたのでした。

私も田舎に居た、中学高校の頃には、ラジオなどで念法の教えも学ばせてもらいました。

呼吸ひとつ、自分でしているのではないのです。

椎尾弁匡僧正の『仏教の要領』にも、表現は難しいのですが、同じことを説かれています。

「我が心、我が身体としたものは、我の我とすべきものはなく、身心悉くはこれ天地の大なる顕現であり、宇宙一切が総合関係して感応する作動となる。

自己のものとなる何物もない。呼吸なければ、一塊の肉団となる。

その呼吸も遙かに草木に通じ、一呼吸も我が発明努力するところの結果ではない。

呼吸は天地の大作用であって、我が呼吸ではない。

かくの如く、飲食も言語も、動作も、思想も、われがよくなし得るところのものではない。

皆すべては、自然社会の総合し育成する因縁和合のものである。

このことに気づいて、釈尊の覚の第一義が開かれたのである。

自然とせる執縛の無明は破れて明星輝き、自我に基づける邪見思惑は除去されて、勇ましき活躍感謝の奉仕を感じたのである。

この慈眼によって現出する世界が、実相の世界であり、一如の世界であり、空の世界である。」というのであります。

この呼吸は、自分で行っているものではなくて、天地の大作用なのだというのです。

天地の大いなるはたらきが、この我が身に起こって、呼吸しているのであります。

呼吸法などに熱心になっていると、この呼吸が天地のはたらきだということを忘れてしまいかねません。

自分でやっているところはひとつもないのです。

食べるということもそうです。

もっと端的を言うと、聞くということもそうです。

盤珪禅師が、よくお説法の時に、みんなは今私の話を聞こうとして聞いているけれども、そんな時に外で鳥が鳴けばちゃんと鳥の声を聞こうともせずに聞いていると説かれました。

その聞こうともせずに聞いているのが、不生の仏心だというのです。

天地のはたらきがあるのみなのです。

わがはからいは、実はどこにもないのであります。

これを「無我」と申します。

そのおおいなる天地のはたらきを、仏とか神とかいうこともあれば、真如とか空という場合もあるのです。

一呼吸も自分で作ったものはない、造作したものはないのです。

そんなことに心を向けてみたらどうでしょうか。

まずはじめに息を吐いておいて、すぐに吸わずに、しばらく、ほんのしばらくですが待ちます。

すると、自分が吸おうとして吸うのではなく、自然と吸うはたらきが起きてきます。

吸い終えると、ほんのしばらく待てば、自分で吐くのではなくて、自然と天地のはたらきとして吐き出すのであります。

みな天地のはたらきであって、そのはたらきにすべて任せて委ねるのであります。

吸う息がやってきたら、ようこそという気持ちで迎えるのです。

吐く息が現れたならば、ありがとうという気持ちで送り出すのです。

そういうことをただくり返していくと、すべての現象は現れては消えるだけで、そこに自我意識は介在しないことが分かってきます。

なにが起きても「ようこそ」と迎え、過ぎてしまったら、「ありがとう」と感謝します。

これだけで生きていけるようになれば、一番理想であります。

 
横田南嶺

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