思い邪無し
『論語』にある言葉です。
『論語』に、「詩三百、一言以てこれを蔽う、曰く、思い邪なし」とあります。
岩波文庫『論語』の金谷治先生の訳によれば、
「先生がいわれた、「詩経の三百篇、ただ一言で包みこめば、『心の思いに邪なし』だ。」ということであります。
こういう言葉が禅語としても用いられています。
茶掛けなどにも書かれることがあります。
岩波文庫で出版した『禅林句集』を編集した時にも、この「思い邪無し」という一句を入れたのでした。
平田精耕老師の『禅語事典』には、
「思い邪無しというのは、道徳思想を説いている論語のことばです。
これが禅の世界で使われると、思いというのは人間のいろいろな想念、邪とは分別の心を表わします。
つまり人間の想念の中に分別の心がなくなったことを表わしています。
それが大悟徹底の心境です。
道徳的にいわれる善とか悪とかの悪を思わないということでは決してありません。
仏教的な意味で、それこそ善いことも悪いことも全部超えてしまったところを、思い邪無しということばで表現していますが、そこまで徹底しないと、禅でいう心の本当の姿を自覚することはできません。」
と解説されています。
思いそのものは生きている限り消えてなくなることはありません。
そこに分別の心がはたらくのがよくないというのであります。
もっとも、分別もなくしては生きていけませんので、禅では一度「無分別」を体験して、その上で、自在に分別をはたらかせてゆくことを説くのであります。
邪な心というと、仏教ではなんといっても「煩悩」を思います。
そもそも煩悩とはなんでありましょうか。
まず『広辞苑』をひいてみますと、
「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の心理作用」という解説がございます。
更に岩波の『仏教辞典』を調べてみますと、
「身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称。
輪廻転生(りんねてんしょう)をもたらす業(ごう)を引き起こすことによって、業とともに、衆生(しゅじょう)を苦しみに満ちた迷いの世界に繋ぎ止めておく原因となるものである。
外面に現れた行為(業)よりは、むしろその動機となる内面の惑(わく)(煩悩)を重視するのが仏教の特徴であり、それゆえ伝統的な仏教における実践の主眼は、業そのものよりは煩悩を除くこと(断惑(だんわく))に向けられている。」
と解説されています。
初期の仏教では、
「煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが、それらの中で代表的なものは<貪(とん)>(貪欲。むさぼり)、<瞋(しん)>(瞋恚(しんい)。にくしみ)、<癡(ち)>(愚癡(ぐち)・無知)のいわゆる三毒(さんどく)である。
四諦(したい)説の枠組みのなかでは、飽くことを知らない欲望(渇愛(かつあい))、即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる。」
と説かれています。
煩悩の最も根源的なものは、渇愛であります。
渇愛は、「対象に対する本能的な強い執着、欲望のこと。インド語原語の意味を反映して、しばしば「喉の渇き」にも喩えられる」のであります。
渇愛には三つがあります。
欲愛と、有愛と、無有愛とであります。
欲愛は、性的な悦楽や快楽を激しく求める欲です。
有愛は、生存に対する欲であります。
無有愛は、生存の否定への願望であります。自ら命を絶とうとする欲望であります。
貪瞋癡の三毒は、煩悩の根本となるものです。
貪欲は「財物などをむさぼり求め、飽くことのないこと。単に<貪>ともいう。煩悩の中でも最も強いものである」というのです。
瞋恚は、「読みぐせで<しんに>とも。単に<瞋>とも<恚>ともいい、<怒(ぬ)>とも訳される。いかり憎むこと。煩悩(ぼんのう)の中でも最も激しく衆生の善心を害し、仏道の障害となるものであるから、<瞋恚の炎>というように火にたとえられることが多い」のであります。
愚癡は、「漢語の本来の意味は、愚かでものの道理を解さないこと」であり、「<愚癡>は<無明(むみょう)>と同じで、仏教の教えを知らず、道理やものごとを如実に知見することができないことをいう。単に<癡>ともいう。煩悩の中でももっとも基本的なもの」なのであります。
眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官が外に世界に触れて、心地よければ、貪欲を生じ、心地よくないと、瞋恚を起こします。
その根源となるのが愚癡であります。
『仏教辞典』にも、「貪欲とか瞋恚(怒り)は悪行為(悪業(あくごう))のもととなる煩悩で、さらにその煩悩の根源が愚癡である。愚癡は無明(むみょう)ともいわれるもので、心がとらわれていて真理に明らかでないことを意味する」と解説されているのです。
よく百八の煩悩と言われますが、百八という数え方にはいろいろございます。
その中のひとつに、私たちの六根が外の世界に触れて、それぞれ、好(気持ちが良い)、悪(気持ちが悪い)、平(どうでもよい)と三つの反応があります。
それで十八になります。
その十八それぞれに、浄(きよらか)染(きたない)があって、三十六になります。
それが前世、現世、来世にそれぞれあって、三十六の三倍で、百八になるというのであります。
仏教では、「衆生の心は本来光り輝く清らかなものであり、それを汚している煩悩は副次的なものに過ぎない(心性本浄(しんしょうほんじょう)客塵煩悩(きゃくじんぼんのう))のだから、煩悩の穢れを除くことによって心は本来の清浄性を回復することができるのだという思想」が古くからございました。
そして大乗仏教になると、また違った展開になってきます。
『仏教辞典』をみますと、
「このように、多くの煩悩を数え、それらを断ずることによって輪廻から解放されようとするのが、初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが、大乗仏教になると、煩悩を実体視して迷いの世界と悟りの世界とを峻別する考え方そのものが空(くう)の立場から問い直されるようになり、<煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)><生死即涅槃(しょうじそくねはん)>などの考え方が前面に打ち出されるようになった」のでした。
そして「こういった考え方は、迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする菩薩(ぼさつ)思想と密接な関係が」あるというのです。
分別する心をなくすわけでありますから、迷いの世界、悟りの世界と分けることをも否定するのであります。
この現実の迷いの世界の只中で共に悩み、共に苦しみながら生きるところにこそ、真実があると説くようになったのであります。
悲しい時には、涙を流して悲しみ、苦しい時には共に苦しむというのが、禅で説くところの「思い邪無し」の姿なのです。
横田南嶺