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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.08.11
今日の言葉

消えないもの、それは…

知人から送っていただいた新聞の記事を拝読していました。

ある方の投稿です。

通勤でやってきた町でのこと。

近くに駅がなく、バスを利用しているのでした。

そのバス停にたまに見かける老婦人がいるそうです。

その老婦人というのは、「目が虚ろでどこか落ち着きがない。誰が見ても様子がおかしい」というのです。

声をかける人もいたらしいのですが、ある時に、警察が来たのをみて、その婦人が認知症で徘徊していたと気がついたのでした。

梅雨時のこと、その老婦人がいたそうです。

傘の使い方も分からなくなったのか、傘を持ったまま全身ずぶ濡れだったというのです。

ためらったけれども声をかけたのでした。

そうして、警察が来るまで一緒に待っていたそうです。

一緒に待っている間に何か話をしようにも、認知症だから何を話しても理解してもらえないのではないかと思ったのでした。

まもなく警察が来て、帰ろうとすると、その老婦人は二本持っていた傘のうちひとつを差し出したそうです。

「家は近くなのでだいじょうぶです」と言って、走って家に帰りました。

その後息子と名乗る方から電話がありました。

「昔ね、私の父がバス通いをしていましてね。それで雨の日になると母はよく迎えに行ってたんですよ。だから今日もきっと」

その一言を聞いて、「あまりの衝撃に言葉がなくなった」と書かれていました。

傘を二本持っていた理由がやっと分かったのでした。

それはその方の「やさしさ」だったのです。

自分にも傘を貸そうとしたというのは、自身は濡れてもいいと思ったからだろうと。

その方は、「認知症だから何も分からないなんで思っていた自分が急に恥ずかしくなった」と書かれていました。

認知症になって、いろんな記憶も失われていくのでしょうが、大切な人のことを思う心は消えないのだと思いました。

何も分からなくなってしまってもなお雨が降ると傘を持って大切な人を迎えにゆくという、その心の尊さを思います。

読んでいて目頭の熱くなる記事でした。

坂村真民先生の「消えないもの」という詩を思い出しました。

 消えないもの
消えないものを求めよう
消えないものを身につけよう
消えてゆく身だけど
消えないものがある
それは愛 
そして真心

 消えないもの
どんな伽藍でも
いつかは壊れる
それは歴史が示している
だがいつまでも壊れないものがある
それは愛と慈悲である
この二つは
エーテルのように宇宙からきえることはない

「愛」というと、キリスト教では大切にされています。

良いこととして積極的に説かれているように感じます。

しかしながら、仏教では「愛」は、あまり良い意味では使われません。

愛欲、愛着として離れるべきものとして説かれることが多いのです。

迷いや苦しみを引き起こすもととして説かれているのです。

『法句経』212にも

愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

と説かれています。

まして、況んや禅の語録には「愛」が説かれることは稀でありましょう。

以前に中峰和尚の語録を読んでいて気がついたことがあります。

禅の語録に「愛」が説かれていたのです。

中峰和尚の語録は全二十巻の浩瀚なもので、内容も実に豊かな語録です。

このなかに中峰和尚が「愛」について述べているところがあります。

中峰和尚は「愛」について、これは生死迷いの根本であると同時に、迷いの世界を越えて悟りに至る近道でもあることを述べています。

そして、愛にはその二種類があると述べています。

仏道にかない悟りに近づく「愛」とはどういうものかというと、中峰和尚は端的にそれは人を愛すること(衆人を愛す)だと述べています。

人を愛すること、それは人々を速やかに迷いから悟りに到るように願うことで、この心を持つことはなにより悟りに至る近道であると説いています。

この愛の心があればことさらに仏道にかなおうと努めなくても何をしても自ずから仏道にかなってくるとまで述べています。

逆に迷いを引き起こし、苦しみの本になる、離れるべき「愛」とは己を愛することだと明確に論じています。

この己を愛することによって様々な怨みねたみ執着苦悩が生じてきます。

自己肯定は大切でしょうが、自己のことばかり考えるのはよくありません。

盤珪禅師が「身のひいき」と言われたのもこれでありましょう。

同じ知人から送っていただいた資料の中に鍵山秀三郎先生の言葉がありました。

人間は二つ同事に異なる意識を持つことはできない
私のことを考えているときに、公のことを考えられない
公のことを考えていれば、私にとらわれることはない

というのです。

これも私を愛するのではなく、公、広く人々を愛することを説いているのだと思いました。

自分のことばかりを考えるのは、よくない愛でありましょう。

これが仏陀の説かれた離れるべき愛であります。

それを離れて、広く人を愛する、公を大切にする心こそが、大事であります。

それが仏心であります。

消えないものは、愛、そうありたいものであります。

 
横田南嶺

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