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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.08.09
今日の言葉

失ってから気づくもの

腰塚勇人先生から、今月も『幸縁』116号を届けていただきました。

有り難いことに、最近は毎月お届けくださっているのです。

お葉書も中に添えてくださっています。

腰塚先生の事は、何度もご紹介したことがありますが、中学校の体育教師だった時に、スキーで転倒して「首の骨」を折るという大けがをしたのでした。

「たぶん、一生、寝たきりか、よくて車いすの生活になるでしょう」

と医師から告げられたそうです。

手術は成功したものの、首から下は全く動きません。

その頃は、どうやったら死ねるかだけを考えていたと言います。

それでも懸命に支えてくれる家族や看護師や、仲間や生徒たち、事故で死んだ教え子の存在、病気で死んだ友達の存在などなどと感じると、

「一人じゃない」「生きなきゃ」と思ったのでした。

腰塚先生は、

「まったく動けなくても、『花』のように生きることはできるかもしれない。

今のすべてを受け入れて、いつも『笑顔』でいると決めました。

どんなことにも

『ありがとう』を言おうと決めました」

というのでした。

たいへんなリハビリやいろんなご苦労をされながらも、「下半身の感覚はあまりないし、右半身はうまく動かせませんが」、教師として現場に復帰されました。

ただいまは、ご自身の体験をもとに講演活動をなさっている方であります。

いただいた葉書の、上部には、おそらく腰塚先生がお作りになられたであろう詩が書かれています。

引用させていただきます。

失ってから

失ってから優しさを知り
失ってから必要性を知り
失ってから悲しみを知り
失ってから愛しさを知り
失ってから大切さを知り
失ってから本心を知り
失ってから幸せを知り

いつだって答えを知るのは
後になってからで、
いつだって答えを受け入れるのは
後になってから。

という言葉であります。

一瞬のうちに、身体の自由を失った経験を持つ腰塚先生ならではの実感のこもった言葉であります。

深い言葉だなと思って、その下に書かれた自筆の文章を拝読しました。

「毎月お参りさせて頂きありがとうございます」という感謝の言葉から始まっています。

そして、その後に出掛けた弘前で財布を失したと書かれています。

「自身の心ここにあらずと老化の両方から今後の教訓と思っていたら見つかりました」と書かれていました。

「老化」と書かれているのに驚きました。

腰塚先生は私よりも一歳お若いのです。

私も「老化」を自覚せねばならぬのであります。

葉書の上部に「失ってから」の深い詩があり、下部には、財布を無くした話があって、笑っていいのかどうか、迷ったものでした。

「悟りとは失って初めて気づく大事な事柄を、失う前に知ることである」とは、私が尊敬申し上げる老師のお言葉であります。

本当の尊さ、値打ちは、それが無くなったとき、あるいは無くなりかけてからわかるのでありましょう。

普段当たり前にある、あることが当たり前の内は、なかなかその値打ちは分からないのがお互いであります。

私は、幸いにまだ財布を無くしてあわてることはありません。

この頃は気を付けているので、めがねを無くすこともないのですが、めがねにしてもそうであります。

めがねがないとほとんど暮らしてゆけないほど、目が悪いにも関わらず、普段めがねに感謝することも、めがねのありがたさを思うこともないのです。

このありがたさに気づくのはこのめがねを無くしたときであります。

めがねを探すためにめがねがいるほどであります。

『無門関』に「香厳上樹」という禅の公案があります。

人が木に登っていて、口に枝をくわえて、手も枝を握っていないし、脚も枝を踏んではいない状態です。

全く口だけで枝にぶら下がっているときに、木の下に人がいて、和尚さん、禅の教えとはいったいどんなものですかと聞かれたらどう答えるかという問いです。

この問題について、『無門関』を著した無門禅師は、

「たとえ立て板に水のような弁が立っても、こうして木の上で枝をくわえて踏ん張っているときには何の役にも立たない、大蔵経を全部諳んじていても、こんな時には何の役にも立たない」と言っています。

口で枝をくわえていますから、うんともすんとも言えません。

お経を読むことも、話をすることも出来ません。

あらゆる言葉を用いることも出来ません。

それでも本当の尊さは何かというと、そんな長いお経を読むことでも、ありがたい話をすることでもないのです。

本当の尊さとは、只今こうして生きていることに尽きます。

この生かされて生きている姿こそ仏心の姿です。

たとえば、どうにもこうにも言うことの聞かない子があったとします。

ところが万が一、その子が居なくなってしまったとしたらどうでしょう。

はてさていくら探しても見あたらないとなると、親は必ず「どうか生きていてくれますように」と祈ります。

今まで言うことを聞かなかったなんていう事はもうさしおいて、「どうか生きていてくれれば」、「命さえあれば」と願うものでありましょう。

生きていること、いのちのあること、実はこのことこそ、仏さまのいのち、仏さまのこころの働いている証拠であって、これ以上尊いものはありはしません。

朝比奈宗源老師は、

「仏心は宇宙を包んでいます。

空間的に言えば全宇宙が仏心です。

我々がこの広い空間に生まれてきて、広い空間に住んで、広い空間で息を引き取っていくように、我々人間はその仏心の中で生まれてきて、その仏心の中に住んで、仏心の中で息を引き取っていくんです。

私どもの世の営みは一切仏心の中です」

と仰っています。

なにもかも失った時、あるいは失いかけて、この大いなる仏心の中に抱かれていることに気がつくのであります。

 
横田南嶺

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