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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.07.30
今日の言葉

矢印と円

『不要不急』という本に書かれている阿純章さんの文章は秀逸であります。

内容も深いし、様々な引用も豊富だし、それに文章のリズムがいいのです。

時々、クスッと笑ってしまうようなユーモアもあって、飽きが来ないのであります。

「不要不急」ということについて、ずいぶんと深く掘り下げてくださっています。

こんな一節があります。

「長い生涯の中のたったの一歩はとるにならない不要不急の無価値に思えても、同時にその一歩には人生すべての価値があるといえるのだ。」ということです。

不要不急だの価値がないだのと言って切り捨てることはないのです。

阿さんは、

更に『臨済録』の言葉を引用されています。

「禅語でこれを言うならまさに「途中にありて家舎を離れず。家舎を離れて途中にあらず」という一句がピッタリだ。

家舎とは到達すべき修行のゴールだ。

人生も一つの修行とするならば、それは永遠に途中であって完成することはない。
でもそうでありながらゴールと決して離れてはいないのだ。

また見方によっては、確かにゴールからかけ離れている。けれどもそれは決して途中ではないのだ。」

と解説されています。

これだけでは分かりにくいので、阿さんは更に親切に、

「私たちは人生をよく道に譬えるが、その道のりを漠然と矢印のような直線軸でとらえてしまうからだ。

そうすると途中にある線と、矢印の先にあるゴール地点とは明らかに違う。でもどうだろう。

私たちの人生のどこかに線が引いてあるのを見たことがあるだろうか?」

と問いかけてくれています。

そこから次の文章に、詩人のような感性が光ります。

「たまに、ふとこんなふうに思うことがある。

例えば朝起きて窓の外の景色を眺めたとき、「ああ、この景色を眺めるために生まれてきたんだな」とか、道すがらすれ違う人とあいさつを交わしたとき、「ああ、この人とここで出会うために生まれてきたんだ」とか、人生で訪れる出来事の一つ一つが自分の生まれてきた理由ではないかと。」

というのであります。

そして「人生の一歩一歩がつねにゴールだということが納得できるのだ。

だとしたら、これ以上何を必要とし、何を急いで生きるのだろう。

一休禅師もこんな歌を残している。

「行く末に宿をそことも定めねば踏み迷うべき道もなきかな」

と書かれています。

途中に在って家舎を離れずというのは『臨済録』にある臨済禅師の言葉です。

山田無文老師の『臨済録』には、次のように解説されています。

「人生というものは永遠に途中だ。

永遠に道中におって、しかもいつでも終点だ。

いつも未完成だ。人生は永遠に未完成であって、いつでも完成されておる。

こういう境地がないというといかん。

永遠に道中であって永遠に終点である。

近ごろは進歩、進歩というてやかましいが、どこまで進歩したって人類の進歩に終点はないはずである。

いつまで行ったって、もうこれでいいという解決はないはずである。

劫を論じて途中に在りだ。人類は永遠に進歩していくのである。

その進歩に終点があるだろうなんぞと思うて、みんな騒ぐのであるが、人類の進歩に終点はありはしない。

今日の道中がそのまま終点だと悟りを開いていくことが禅ということだ。」
というのであります。

阿さんは、

「私たちは自分の人生に矢印を引いて、今立っている場所は目的に達するまでの過程に過ぎず、ここにいてはダメだ、誰よりも早く行かねばと躍起になってゴールを探し求めて彷徨っている。

でも円の中で生きているのであれば、いつでもその足元にゴールがあるのだ。

それぞれ立っている場所は違えども後も先もない。

また私たちは自分と他者との間に境界を設けて対立させて比べ合い、時には諍いを起してしまう。

けれども、すべてが融け合って一つであれば、誰の存在が上も下も大きいも小さいもないし損も得もない。

この世界の何もかもが誰のものでもない。ただ存在が存在しているだけなのだ。

「我」とは矢印や境界を設けることによって現れる幻影にすぎない。誰がどこにいても、どんな状況であろうとそこにいていいし、存在しているだけで価値があるのだ。

だから安心してそのまま生きればいいし、みんながそれぞれ違いながらもお互いの存在を認め合える、そういう世界観だ。」

と解説されていてい、目的地へ矢印を向けて進む生き方から、円の中にあるという見方を示してくれています。

天台宗のことを「円宗」と言ったりもします。

まさに「円」の教えなのであります。

そこで阿さんは、

「岩のようにゴリゴリの私の「我」も夢幻のようにもとから存在しないのであれば、躍起になって「無我」の境地を目指そうとするのは徒労だし、自分の本当の正体が「無我」なのであれば、人生に引いた矢印にも境界線にもそんなにこだわらずに自由に生きられるというものだ。

所詮、生きること以外はすべて不要不急。

それだったら、人生滑っても転んでもただ生きてさえいればいいではないか。

そう思ったら、人生あまり深刻にならず、心に少しはゆとりができそうだ。」

という素晴らしい見識を披瀝してくださっています。

天台の教えである、空仮中をもとに「円」の世界を見事に説かれています。

しかしながら、「生きること以外すべて不要不急」と割り切って生きれば、それ以上のものはないと思いますが、お互い人間は、何か矢印を付けて、目的を持たないと生きがたいという一面も持っています。

人生様々な体験を経たうえで、このように存在しているだけで十分だという受け止め方ができるだろうと思いますが、まだ人生これからという若い時に、ただ存在してだけでと言われても戸惑ってしまうものでありましょう。

大きな「円」の中にありながら、その時時の目的を見いだして、そこに向けてその時時の精いっぱいの努力をしてゆくというのが宜しいのはないかと思います。

矢印に振り回されるのも苦痛でありますが、全く矢印がないところにも人間は戸惑ってしまうものです。

「夢幻」のようなものと分かっていながらも、その「夢幻」を楽しんで生きるということもあると思うのであります。

 
横田南嶺

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