美しいものをみよう
『禅の友』は今も発行されていますが、お送りいただいたのは、昭和四十五年のものであります。
当時坂村真民先生が、『禅の友』に詩を載せておられたのでした。
送っていただいたコピーは、松原泰道先生と曹洞宗の服部松斉さんの対談記事でありました。
ちょうど松原先生のご命日の近くだったので、松原先生をしのび有り難く拝読させていただきました。
松原先生の『般若心経入門』が昭和四十七年の発行ですから、まだ『般若心経入門』が世に出ていない頃なのであります。
松原先生が、六十三歳の頃のものであります。
対談記事を読んで深く感銘を受けました。
なにに感銘を受けたかというと、対談の内容の深さとその構成であります。
対談だからといって、思いついたことをしゃべっているのとは全く違います。
話す内容について、その構成も含めて、きちんと支度して、用意周到に語られているというところです。
どんな話であっても綿密に準備をしておられた松原先生ならではだと思いました。
話の始めに、松原先生がアメリカのとある教育家の方のことを紹介されています。
「毎日一つずつでいいから美しいものを見つけよう」と言い出して、何年かしているうちに、たまたま道端でみすぼらしい婦人にであったそうです。
救いを求められたときに、やはり美しいものを見つけましょうということを教えたのでした。
その後その婦人にであったときに、みすぼらしいことに変わりはないのですが、非常に顔に明るさがあったというのです。
よく聞いてみたら、そのみすぼらしい婦人は人生をはかなんで、親子心中をしようと思ったそうなのです。
そのとき、ふっと西の空を見たら、夕焼けが非常に美しかったのでした。
その美しいものをみたとたんに死の誘惑に勝てたというのでした。
この話を冒頭に紹介なされています。
いい話であります。
しかし、これで終われば仏教としては深まりがありません。
松原先生は、そこから一人一人にある仏心仏性を見いだすことにつなげて説かれています。
そこで、更に「ありがとう、すみません、はい」の言葉を説かれています。
大阪のある高校の先生が、「アスハ運動」というのを提唱されていたと紹介されています。
ありがとう、すみません、はいでアスハなのです。
晩年には、ありがとうが厳粛、すみませんが敬虔、はいが邂逅と説かれていましたが、まだそこまで整理はされていない頃のお話であります。
こんな頃から、素材ができていたのだと学ぶことができました。
とくに「はい」という返事に禅の立場から解釈をなされています。
「『はい』ということは、自分が自分に会うわけです。」
と説かれています。
松原先生は、
「いま親とか先生とかとの断絶はだれもいいますけれども、自分が自分と断絶しているということは、禅でなければいえないことだろうと思う。
この返事によって、自分が自分に会うということがほんとうの相見だからということですね。
逆にいうならば、ほんとうに気持ちのいい「はい」という返事は、自分も自分になれるし、相手に呼びかけることになるのだし、そして、相手に気持ちのいいものを与えれば、それがまた美しいものを引き出すことにもなりますからね。
だから呼びかけられたときに「はい」という返事をしていけば、相手の中に美しいものを見ることができる。こっちが美しくなければ、相手の美しいものは見られませんからね。」
と仰っています。
「はい」という返事で相手の中に美しいものを見いだせるというのです。
それから、更に松原先生は、浄土真宗の広瀬杲先生の言葉を紹介されています。
「南無阿弥陀仏ということばを今の日本の言葉で表すと、「ありがとう」「おかげさまで」でいいのではないかというのです。
ありがとうというのが「南無」で、おかげさまでというのが「阿弥陀仏」だというのです。
その話を引いておいて松原先生は、禅は有り難いな、そんなことをいわなくたって、その相手の中から仏心を引き出すことができると仰っています。
ありがとうがそのまま南無阿弥陀仏になるのだからというのであります。
そうして最後には、「真実はほほえみに伝わる」として、ほほえみを説かれています。
松原先生は、心に化粧の済んだ時の表情がほほえみだと説かれています。
拈華微笑という禅語に触れて、いうことも語ることもできない人生の真実なるものが、ほほえみの中に伝わったということだと解説されています。
そして、松原先生は、「柔軟心に咲く花がほほえみで、その花に実ったのがことばだ」と仰っています。
仏心、柔軟心がもとで、それが持てるときにはほほえみになり、実ったらことばになるというのです。
というように美しいものを見ようという話から、ありがとう、すみません、はいの話に発展させて、はいという返事は自己が自己に出会うことであり、相手の中にも美しいものを見ることができると敷衍させておいて、その美しいものとは仏心にほかならないとしています。
そこから、仏心を「南無阿弥陀仏」を例にとって、ありがとう、おかげさまでという言葉で表されると説いています。
そして最後に、美しい仏心に咲く花がほほえみで、実ったのが言葉だと締めくくられています。
見事な内容と構成なのであります。
綿密なご準備をなされてこその対談だと思います。
ご命日にあたって、松原先生をしのび、なお一層己に鞭打たねばと思ったのでした。
横田南嶺