自分とは何?
己事究明といって、自己とは何かを究めて明らかにすることであります。
自分とはどんなものか、伝統の仏教学でいえば、明らかに「四大五蘊」であるということになります。
四大とは、四つの構成要素のことで、肉体を構成するものです。
地水火風の四つです。
地とは、髪の毛、爪、歯、皮膚、肉、骨、骨髄、内臓などの物質であります。
水とは、血、膿、汗、脂、涙、唾、鼻水、尿などの水分であります。
火とは、熱です。身体を温める火、身体を衰えさせる火、苛々させる火などです。
それから風とは、息の風を言います。
こういう四つから成り立つものであり、この四つには、わがものはなく、われもなく、自我はないと観察します。
それから五蘊は、色受想行識の五つの集まりを言います。
色は、肉体です。
受は、感受です。快か苦かを感じます。
想は、想念です。快か苦かを感じたことに対して、喜びを思ったり、怒りを思ったりします。
行は、意志を形成することです。喜びを思うものはもっと欲したくなります。それが愛という意志を形成することになります。怒りを思うものには、憎しみという意志を形成してゆきます。
そして、外界を真と偽、善と悪、美と酬と自分中心に色分けをして認識するのが識です。
この四大と五蘊が仮に集まって自己というのもがあるように見えていると説くのであります。
七月十二日の日本講演新聞の社説は、「自分はどんなものでできているのだろう」という題であります。
そのなかに、書家・白水春鵞(しらみず・しゅんが)さんの著書『数えてごらん』(コスミック出版)という本の内容が紹介されていました。
お互い自分というのものは、「一体どのくらいの人たちが関わってきたか数えてみましょう」と語り掛けているというのです。
社説から引用させていただきます。
「あなたのおむつを替えてくれた人は誰ですか?」
「肌着や洋服は一体どうしたの?」
「あなたを幼稚園・保育園に送り迎えしてくれた人、そこであなたのお世話をしてくれた人は誰ですか?」
「小学校の入学式にあなたを連れていってくれた人は?」
「あなたを高校・大学まで出してくれた人は?」
「学校であなたに勉強を教えてくれた先生の名前を何人言えますか?」
「あなたが病気になった時、看病してくれた人は誰ですか? 一体何人のお医者さんや看護師さんのお世話になったのでしょう?」
「あなたが学校で食べた給食は、どんな人たちが、何人で作っていたか知ってますか?」
「人は皆、過去に起きた出来事、出会った人たち、経験してきたこと、食べてきたもの、学んできたことなどでできている。」というのです。
それから更に白水さんは、
「あなたが生まれて今日までたくさんの人が関わってくれました。その人たちに感謝することを忘れていませんか?」
「また、あなたが生まれる前、懸命に生きてきた、たくさんのご先祖がいたことを忘れていませんか? その数を数えてみましょう」
「先祖を10代遡っただけでも2046人の人たちがいる。その全員のDNAも全部、今の自分を構成している。
それから今の自分を作ってきた出来事、経験、出会いには感情が伴っていたはずだ。」
と書かれています。
松原泰道先生が、「先祖の血みんな集めて子が生まれ」という句を引用されていたことを思い出しました。
そして、その白水さんの問いかけを読んでいて、内観という修養法を思い出しました。
ここでいう内観というのは、白隠禅師の内観の法とは異なります。
もとは浄土真宗に伝わっていた「身調べ」というものを、吉本伊信先生が独自に作られたものです。
自分の過去をたどっていって、それぞれの時期において、母親なら母親に自分が、
一、してもらったこと
二、して返したこと
三、迷惑をかけたこと
の三つを調べてゆくのであります。
およそ一週間ほど部屋にこもって、一時間半ほどずつ指導者の方が、何についてどう調べたか聞きにくるので、答えます。
これを、幼稚園の時、小学生の時、中学生の時と調べてゆくのであります。
それを一週間ずっと調べてゆくと、いかに自分が多くの手をかけてもらって来たか、それらのご恩に対して何も返していないこと、どれだけの迷惑をかけたかが身にしみして感じられるのであります。
そうしますと、生きていることは生かされていることだと実感します。
有り難うございます、おかげさまですと自然に頭が下がるようになるのです。
浄土真宗の信心をいただくために行われていたものが、吉本伊信先生によって修養法として確立されたのでした。
今では、心理療法としても用いられています。
私も高校時代に、吉本先生のところではなかったのですが、吉本先生の方法に則って、伊勢の合掌園というところで一週間行ったことがあります。
その頃には、すでに坐禅をしていましたので一週間坐るということは苦痛ではありませんでした。
もっとも内観は坐禅修行ではありませんので、どんな坐り方をしてもいいのです。
ただ、私は坐りなれていましたので専ら坐禅を組んで行ったように覚えています。
そうしますと、いかに今日まで多くの人の手をかけてもらってきたか身にしみて、生きているだけでどんなに有り難いことか身にしみるのであります。
先代の管長であった足立大進老師は、常々自分はどうしてここにいるのかを究めてゆけと指導されていました。
そうして、限りないご縁とおかげに生かされていると頭が下がって、自分が生きているのではなく、生かされているのだと方向が転換することが大切だと説かれていました。
禅の修行では、よく「無」になれと申します。
たしかにこれは大事な修行であります。
しかしながら、この修行をなさった方には、よく自己が消えて無になった、無になったまま聞こえていた、自己が無くて歩いていたのだなどと語られることがございます。
素晴らしい体験だとは思いますし、敬意を表しますものの、どこか違和感を感じてしまいます。
なにか「無」になったのだと、「無」になった自己を誇っているように感じられるのであります。
語っていらっしゃるどこかに、あなた方にはできないことをやったのだという思いがチラリと見える気がしてしまいます。
それよりも、多くのおかげで生かされて、有り難い、もったいないと自然と頭が下がって手が合わさる生き方の方が、私には親しく感じるのであります。
この自分は何でできているのか、どれだけ多くの手がかかっているのか考えてみたら如何でしょうか。
横田南嶺