人皆に種有り
海原純子先生の「新・心のサプリ」は、毎週楽しみに拝読しています。
七月四日には、「どうする環境格差」という題でありました。
「遊歩道に小さなスペースが作られ花が植えられている」のだそうです。
保育園の園児たちがヒマワリの種を植えて育てていたそうです。
そのスペースは二カ所あるというのです。
五~六メートルほど離れているのです。
芽が出た時には、同じような様子でした。
ところが、六月に入ると、一つの場所のヒマワリは、もう腰くらいまでの高さに伸びているのに、もう一つの場所のは、まだ数センチだというのです。
海原先生は「二つの場所は見たところ大きな違いは何もないように見える。日当たりも風通しも同じように見える。でも何か条件が違うのだろう。」と言います。
そして
「これを見て考え込んでしまった。ヒマワリの種は同じものだ。でも置かれた場所でこんなにも成長が違ってしまう」のはなぜかとお考えになります。
そこで
「環境の条件というのは、こんなにも差を生むものなのだ。
それは植物も動物も生き物としての人間も同じで環境で大きな影響を受ける。
特に成長の最初の一歩となる幼少期の環境の差は大きい。
そして整った環境で教育を受けてきた人は、高い能力を得ることが多い。
もともとの差がほとんどなくても差は大きくなる。」
と書かれています。
安積得也さんの詩集『一人のために』のはじめに
はきだめに
えんど豆咲き
泥池から
蓮の花が育つ
人皆に美しき種子あり
明日何が咲くか
という詩がございます。
経典には、「衆生心中に仏性有り。」とあって、私たちの心には佛になる種が宿っていると説かれています。
しかし、置かれている環境によって、その現れ方は異なるのでしょうか。
はきだめであろうと、泥池であろうと花を咲かせてほしいものです。
釈宗演老師の『観音経講話』に、正義の種という話があります。
徳川八代将軍吉宗のところへある日大岡越前守が登城をしました。
御前に拝謁すると、将軍が言いました。
「お前はたいへん町奉行として評判が良い。人が皆なお前のことを褒める。難しい訴訟でも、立派に捌くには、何か種があるのだろうと人がいう。予もそう思うが、どんなものか」と言いました。
大岡越前守は、「さようでございます。まんざらないこともございませんが」というと、将軍は「予も果たしてそうとは思ったが、どんな種か、正義という種があるなら、その種をちょっと目の前に取り出して見せてもらいたいものである」と言ったのでした。
明くる日に大岡越前守は静々と登城して将軍の前に出て、しかして礼を施して、何か小さなものを風呂敷包から物々しく取り出しました。
何かと見ていると、張り子で作った達磨さんでした。
ころんだらすぐ起き上がるという、あの起き上がり小法師です。
そうして真面目な顔をして、それを突き飛ばすと、達磨さんはいったん倒れるが、また頭を上げて起き返ってきます。
前から突き飛ばしても、うしろから突き飛ばしても直ぐにもとのまま起き返ってきます。
右からしても左からしても、いったんは倒れるが間もなく起き返ってくるのです。
そういうことをやって見せました。
そうして「正義の種を見せろという仰せであるから、かように持ってまいりましたが、これでお分かりになりましょうか」と申し上げたのでした。
宗演老師は、「それに違いない、味わうべきである。なんべん倒れてもまた起き返る。正義もその通り、ちゃんと中心点がきまって、なんべん倒れても必ず起き返る。大勢見ていた人が、なるほどそう云えばそれに違いない。さすがは大岡越前守であると非常に感服した。」と書かれています。
この起き上がり小法師の心こそが、正しく生きる種なのでしょう。
更に大岡越前守は今度は懐から小判を一つ取り出して、それを起き上がり小法師を横に倒してその上に置きました。
そうするとさすがの起き上がり小法師も起き返ることができません。
押さえるものがあるために、それに妨げられて起き上がることができないのです。
黄色い小判を載せられると、起き上がれるものも起き上がれなくなるというのです。
お金という目先の欲望にとらわれてしまうと駄目になるということです。
そんなことを読んでいて、ちょうど坂村真民先生の詩を思い起こしました。
「悩めるS子に」
だまされてよくなり
悪くなってしまっては駄目
いじめられてよくなり
いじけてしまっては駄目
ふまれておきあがり
倒れてしまっては駄目
いつも心は燃えていよう
消えてしまっては駄目
いつも瞳は澄んでいよう
濁ってしまっては駄目
この心こそが、正しく生きる種だと思います。
人間は、蓮の花のように泥池の中でも、それにめげずに花を咲かせることができます。
はきだめの中であろうと、あきらめずに花を咲かせ実を稔らせることもできます。
仏心は、種であり、芽を出す力を秘めているものです。
心中に仏性有りと信じていれば、はきだめであろうと、泥池であろうと、種は必ず芽を出して花を咲かせるはずであります。
横田南嶺