「泥かぶら」の法話
熊野川の河原で鍛冶屋を営んでいました。
熊野は木の国であり、伐り倒した木材を筏に組んで熊野川に流して、運んでいました。
山本玄峰老師は、この筏流しもやっておられたのでした。
私の先祖は、この筏を組むのに使うかすがいを作っていたのでした。
こんなところにも、仏縁が結ばれていたのではないかと思っています。
そんな「かすがい」の話をすることがありますが、この頃は「かすがい」というものが、説明しないと通じにくくなりました。
愛知県の「春日井市」のことかと思われます。
その「春日井市」に、私のよく存じ上げる青年僧がいます。
春日井市にある林昌寺の副住職、野田晋明和尚であります。
平成二年のお生まれですので、まだ三十歳になったくらいの青年僧です。
野田和尚との出会いは、野沢の龍雲寺の法話に出掛けたときでした。
私の法話の前に、短い法話をなさってくれたのでした。
その当時はまだ二十代で、お若いと感じながらも、実に落ち着いた、良い法話をなさってくれて、そのあと私も法話をし易かったことを覚えています。
野田和尚は、向学心が旺盛であって、私の寺で行っている、布薩の講習や、坐禅の講義実習などにも何度も参加してくれています。
春日井からだと遠いのですが、よく通ってくれているのです。
春日井からみえてくれるというだけで、私はご先祖の「かすがい」を思い起こして有り難い気持ちになるのであります。
その野田和尚が、このたび臨済宗妙心寺派のYouTube公式チャンネルで法話を公開されました。
それが、
– おかげさまの心 私の中の仏さま 無位の真人 「泥かぶらに学ぶ」 –
という題の法話であります。
落ち着いて、表情も穏やかで、内容も深くて素晴らしい法話なので、是非ともご視聴いただくようにお勧めします。
無位の真人というのは、『臨済録』にある有名な言葉であります。
妙心寺では、やはり臨済宗の教えの根幹である『臨済録』をもとにして、広く布教なさろうとされているのであります。
頭が下がる思いであります。
岩波文庫の『臨済録』には、
原文は「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」
とございます。
入矢義高先生の訳によれば、
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」というのであります。
「面門」とは、顔のことですが、お互いの眼耳鼻舌身の感覚器官のことを指します。
「一無位の真人」は、常にお互いの眼でものを見ており、耳で聞いており、鼻で臭いを嗅いでおり、舌で味わい、身体に触れて感じているということです。
このお互いの生きてはたらいているいのちそのものにほかなりません。
「無位」ですから、何の位にも属さないのです。
何の地位や、名誉、財産、学歴などに決して汚されることのないすばらしい真の人間なのであります。
臨済禅師は或る日の説法では、「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない。
今この目の前でこの説法を聴いているものがそれだ」と実に端的を示されています。
では一体何ものが聴いているのでありましょうか。
耳が聴いているのか、頭脳が聴いているのか。
耳で聴いているのであって、耳が聴くのではありません。
耳を通して何ものかが聴いているのであります。
頭脳を使って何ものかが認識し判断しているのであります。
その何ものかを仏であると臨済禅師は喝破されました。
しかもそれは何の位にも属さぬ、枠にもはめられないすばらしい真人だと説かれたのであります。
私はこのことを説くのに、臨済宗妙心寺派の管長を務め、全日本仏教会の会長も務められた春見文勝老師の言葉を引用します。
それは
「わたしのなかにもう一人すてきなわたしがおる」というものです。
これは春見老師ご自身の座右の銘であると、老師のご著書『臨済録』にも説かれています。
また老師のお寺の海清寺の門にもこの「私のなかにもう一人すてきな私がおる……ね……ネー」と書かれたと、老師のご著書『無門関』の口絵にもございます。
老師にとっては、とても大切な言葉だと分かります。
野田和尚は、この春見文勝老師のお言葉を引用して、「もうひとりのすてきなわたし」と『泥かぶら』という童話を用いて分かりやすく説かれています。
詳細は、是非とも野田和尚の法話をご覧いただきたいと思います。
『泥かぶら』という話を私は存じ上げなくて、早速絵本を取り寄せて学んでみました。
泥かぶらは、泥まみれの大根という意味で、ある村に「泥かぶら」という仇名を付けられた少女がいました。
醜い顔をしていたらしく、みんなから醜い、汚いといっては、ばかにされひどい仕打ちを受けていたのでした。
そんな泥かぶらに、旅の老人が、美しくなる三つの方法を教えてくれたのでした。
一番目は、自分の顔を恥ずかしいと思わないこと。
二番目は、どんな時にもにっこり笑うこと。
三番目は、人の身になって思うこと。
この三つでした。
そうしたら、本当に輝くほど美しくなれると説かれたのでした。
藁にもすがる思いの泥かぶらは、どんなにからかわれても、どんなにいじわるをされても、顔をあげていつも笑って、誰にでも親切にするように心がけたのでした。
それから、幾多の苦難が泥かぶらを襲いました。
時代背景もあってか、身売りの話も出てくるのですが、泥かぶらに接した悪人も次第に感化されてゆくのでした。
さいごには、
「人はみな心についた泥を落とすことができれば、まっ白なうつくしいまごころがおもてにもあきらかになるのでございます。
そう、心についた泥をおとすことさえできれば」
という言葉で終わっています。
その泥を落とす方法が、自分の顔を恥ずかしいと思わないこと、どんな時にもにっこり笑うこと、人の身になって考えることなのです。
自分の顔を恥ずかしいと思わないことというのは、自分を否定しないことでありましょう。
こうして、親から大事な命をいただいて生きてる、この生身の身体、心まるごと有り難いと受けとめて生きることでありましょう。
それから、二番目にいつもにっこりは難しいものです。
これをいつも必ず行じていれば、きっと明るい未来が開けてくるのです。
そして人に身になって考えるという実践であります。
泥かぶらの物語では、とても信じられないような悲惨な目に遭うのですが、そのころにはもう人の身になることや笑顔でいることがすっかり自身の身についていたのでした。
臨済録の教えから敷衍して考えると、一番目の自分の顔を恥ずかしいと思わないことというのは、お互いのこの肉体は両親からいただいた大切な宝物と思い、心は仏様の心を授かっていると信じることであります。
そう信じるだけでなく、更にどんな時にもにっこりほほえんで、いつも人の身になって行動するのであります。
このように臨済録の教えをもとに日々の暮らしの中で実践すれば、人皆に素晴らしい花が開くことになるでありましょう。
泥かぶらの法話から、たくさんのことを学ばせていただきました。
野田和尚様の柔和で優しい表情と語り口からも泥かぶらの心を学ぶことができます。
横田南嶺