生きるってなに?死ぬってなに?
いろんな分野の方が答えるのだそうですが、私にお坊さんとして答えて欲しいという依頼でありました。
小学生から中学生対象というのは難しいものです。
まず専門用語を使うことができません。
しかしながら、多感な少年期から生と死について考えること大切なことだと思いますので、少しでもお役に立つのであればと取材を受けたのでした。
はじめに受けたのは、小学生の頃から坐禅をしていたのはなぜですかという質問でした。
これは、いつも話していることですが、満二歳の時に、一緒に暮らしていた祖父が亡くなって、火葬場に行った時のことが、記憶に始まりになっていることから語りました。
二歳の時に、人は死ぬものであるということを実感しました。
死んで、まだ当時の煤で汚れたかまどに遺体を入れて、火をつけたのでした。
火葬場から外に出ると、煙突から白い煙が上がっているのを母に手を引かれながら見つめていました。
祖父は、白い煙になって空に帰るのだと教わりました。
死んでいったいどこに行くのか、そもそも死とはいったい何なのかが私の人生の一大事になった時でありました。
小学三年の頃に、いつも一緒に遊んでいた友人が白血病であっけなく亡くなってしまいました。
祖父の死は、まだ高齢でありましたので、自分にとっては先の話、すぐの問題ではないと思っていましたが、同級生の死に遭って、これは待ったなしだと思ったのでした。
葬儀には、友人代表で弔辞を読んだことを覚えています。
葬儀のあとの精進落としの席で、まわりの大人たちが、ワイワイガヤガヤしゃべりながら、お弁当を食べている姿に愕然としました。
友の死に自分でさえこんなに悲しいのに、まして彼の両親のことを思えば、どんな思いでいるのか察するに余りあります。
それなのになぜまわりの大人は平気で弁当を食べているのだろうかと不思議に思ったものです。
それからは、何とか死に対する答えを見つけなければならないと思って、お寺に行ったり、キリスト教や天理教の教会に行ったり、宗教や哲学の書物を読むようになりました。
そんな中で、禅宗のお寺に行って坐禅をしました。
そこで、禅の老師と呼ばれる方にめぐり合って、直観で、この方は、死の問題を解決されていると感じたのでした。
死の問題を解決してくれる道がここにあると直観で思ったのでした。
それからずっと坐禅をしているのだとお話しました。
次に「生きる」とはどういうことだと考えていますかと質問されました。
これは端的に答えました、
「食べることと、寝ることです」と。
先方はきょとんとした様子でした。
もう少し言葉を加えると、お腹が空いたらご飯を食べて、くたびれたら眠ることですと申し上げました。
まだきょとんとしていますので、
もう更にそれに付け加えると、
寒ければ厚着をするし、暑ければ薄着をするのですと申し上げました。
そうして、食べて眠る、寒いと厚着をする、暑いと薄着になる、これが生きているということです。
それ以外のことは、おまけのようなものです。
毎日食べて眠っていれば、それだけで立派に生きているのですと申し上げました。
そんな風に思っていれば、あまり悩まなくていいと思いますと伝えました。
人間ももともと動物の一種なのです、動物というのは、食べて寝ているのです。
それで立派に生きているのです。
次に、生きているのが面倒だと思った時に、どうしたら面倒でなくなりますかと聞かれました。
面倒だと思ったら、何もしないことです。
なにもしないでジッとしていたら、どうなりますか、半日もすればお腹が減るでしょう。
お腹が減ったら、何か食べようとするものです。
それでいいのです。
一晩も眠らないでいたら、眠たくて仕方なくなります、そこで眠ればいいのです。
命の本質は生きようとしているということです。
自然とお腹が減って、何か食べたくなるのは、身体が生きようとしていることです。
眠たくなってくるのも、身体が生きようとしていることです。
生きようとしている身体のはたらきにしたがって生きていればいいのですと答えました。
死ぬことが怖くてしかたないとき、どんなふうに考えたらいいですかと聞かれました。
怖いのは悪くありません。
私も怖いものです。なにせ初めてゆくところですからね。
病院でもいつもいくところは平気ですが、初めてゆく病院だとビクビクします。
ある医師と、対談して本を出したことがあります。
本の題が『なぜ死ぬのが怖いのか』です。
その医師も、幼少の頃から、死が怖くて、死の恐怖を克服するために医学の道に入ったのでした。
外科医になっても死の問題は解決されず、漢方医になった方です。
二人で語り合って、お互いに本の題名を決めました。それがお互いの結論だったのです。
その題は『やっぱり死ぬのは怖い』というものでした。
ところが、これでは本が売れませんと編集者に言われて先の題になったのでした。
やっぱり死ぬのは、誰しも初めてですから怖いのです。
でも分かったことは、怖がっていいということです。
どんなに怖がっても、私たちを包んでくれる大いなるものがあります。
私は、それを「仏心」と呼んでいます。
お互いは、仏心という広い大きな海に浮かぶ一滴の泡のようなもの。
泡は消えても無くなりはしない、海に帰るだけです。
どんなに怖がり、揺らいでも、大きな海に抱かれ帰るのです。
そう思っていれば、安心して怖がれるのです。
またお互いが死を怖れる弱いものだと分かっているからこそ、死に直面して怖いと思っている人に寄り添えるのだと思います。
怖いよね、でもだいじょうぶだからねと手を握ってあげることができるのだと思っています。
前世や来世はありますかという質問もありました。
これは難しいのですが、私の前世は昨日で、来世は明日ですと答えました。
昨日があるから、今日があり、今日があるから明日があるのです。
でも、それは誰しも保証されるものではありません。
人の一生は今日一日だと考えています。
一日終わって次の日にはまた新しい命なのです。
歌にも「新しい朝が来た」って言っているでしょう。
ですから、昨日が前世なのです。
明日が来世なのです。
昨日良いことをしたから、今日良いことがあるのです。
また来世というのを、自分の子や孫のことと思ってもいいでしょう。
自分たちが今環境を破壊したら、子や孫の世代が苦しむことになるから、大切に生きようと考えます。
昨日が前世、明日が来世と思って暮らしていれば、必ずやがて本当に明日が来世となる時がくるのでしょう。
いつもそう思っていれば、大して驚くこともないでしょうと答えました。
「いい死に方」とはどんな「死に方」ですかという問いもありました。
一日が一生だと思っていますから、一日しっかり働いて、今日もよく頑張ったなと思って蒲団に入ってぐっすり眠る、それでいいのだと思っています。
今日もよくはたらいたなと思って蒲団に入って眠るように、そんな死を迎えたいのです。
それを毎日稽古しているようなものです。
最後に今までの人生の中で一番生きてる!と実感したのはどんな時ですかと聞かれました。
それは、今あなたとこうしてお話している時ですよと答えておいたのでした。
さて、どんな風に本にまとめてくれるのでしょうか。
横田南嶺