「もうあかんわ」
おそらく、二十代で講師を務めるというのは、夏期講座八十五回の歴史の中でも初めてではないかと思います。
しかし、その人生経験は、私などには到底及ばない濃密さがあるのです。
私などが、何度も生まれかわってこないとできないような深い体験を、既に三十年に満たない中で経験されているのであります。
この頃は、すっかりお忙しくなられていますので、ご無理をお願いして登壇してもらいました。
あらかじめ「何か仏教のことを語った方がいいのですか」と聞かれましたので、私は、「そんなことを考えることはありません。岸田さんは、岸田奈美を語ってもらればそれでいいのです。それが仏教になっているのです」
とお答えしたことでした。
仏教、特に禅の場合、もともと特別な禅の教義があって、それを学んで禅僧になるというものではありませんでした。
それぞれの人生体験があって、その体験をもとにした言葉が、禅の語録になり、そこから後の者が禅の教えを読みとってきたのです。
岸田さんは、講演の冒頭で、ご自身のそんな濃密な人生を一言で表してくれました。
それが
「もうあかんわ」、
この連続だったのであり、今もまたこの連続だというのであります。
岸田さんは、関西の方なので、「もうあかんわ」と語られます。
「もう駄目だ」というよりも、「もうあかんわ」という方が、なにかやわらかい感じがします。
岸田奈美さんは、ご両親と弟と四人家族でした。
四歳の時に、生まれて来た弟がダウン症だと知りました。
中学二年生の時に、お父さまがお亡くなりになりました。
大好きだったお父さまであることは、ご講演の中でも終始話しておられました。
それでも、反抗期というのか、ある晩ささいなことでけんかして、「お父さんなんか、死んでしまえ」と言ってしまいました。
その夜中にお父さまは心筋梗塞を起こして緊急入院されました。
そのまま意識を回復することなく亡くなってしまったのです。
最愛のお父さまにかけた最後の言葉が、もっともひどい言葉となってしまったのでした。
淡々と語られる岸田さんですが、悲しみは察するに余りあるものでした。
その後、お母さまが懸命に働きました。
二人の子を育てながら、働くということはたいへんなことです。
あまりにも無理が過ぎてしまい、岸田さんが高校一年の時にお母さまは倒れてしまいました。
手術をしても、助かる可能性は20%、どうしますかと医師から問われました。
その決断をわずか十六歳の岸田さんがしなければならないのでした。
岸田さんは、手術をお願いしました。
無事成功しました。しかし、お母さまは下半身不随になり、車いす生活になってしまいました。
子供たちのために何もしてやれないと嘆き悲しむお母さんを、何とかしてあげたいと岸田さんは思いました。
大学で経営学と福祉を学んで、在学中に障害者福祉の会社立ち上げのメンバーの一人になりました。
それが「ミライロ」という会社で、障害を価値に変える、バリアバリューという理念なのです。
その会社にお母さまを雇って、車いすの生活をしている立場から各企業などに話をし、講演活動をしてもらうようにしました。
そうして、お母さまは、人の為にはたらく喜びを感じることができるようになりました。
お母さまに生きる希望をあたえたのでした。
これだけでも素晴らしいお嬢様だと思います。
私が初めて岸田さんに出逢ったのは、そんな頃でした。
お母さまが、ご自身の体験を綴った『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』という本を出版されて、その講演会に私が拝聴しに行った時に、初めて岸田奈美さんに会いました。
よく気がつくお嬢さんだなというのが印象に残っています。
まだお若いのに岸田家の中心となって家族を支える健気な女性なのでした。
ところが、数年前に久しぶりにお目にかかった時には、なんとあの岸田さんが落ち込んで引きこもりに近い状態になっていたのでした。
自分が会社立ち上げメンバーの一人なのですが、会社も出来て十年も経つと、いろんな人間関係に苦しむようになっていったのでした。
こんな時には、どうしたらいいのですかと、その時に岸田さんから聞かれました。
思いもかけぬことだったので、私自身は、どんな答えをしたのか覚えていません。
それが講演では、岸田さんは、そのとき私が
「嵐か台風みたいなもんですよ。
そんな時は、雨戸を閉じて、じっと待つしかないですね。
私もそんな時があります。
今はそういう時期ですから。
嵐が過ぎるまで待つしかないですね」
と答えたと紹介してくれました。
岸田さんは、それまでは自分が悪いと責めていたそうなのですが、お天気のようにそんな時もあるのだと思って、過ぎ去るまで待てばいいんだと思えるようになったのだと、語ってくれていました。
そうして岸田さんは、ご自身の体験を文章にして発表されるようになりました。
それを読んだ佐渡島庸平さんは
誰よりも傷ついた岸田奈美だからこそ
誰も傷つかない文章が書ける
と高く評価してくれたのでした。
岸田さんは、この佐渡島さんの会社にクリエイターとして所属することになりました。
私とYouTube対談をしたのは、その頃でした。
対談した後も、お母さまが今年大病をなさって大手術をされたり、たいへんなことが続いたそうです。
「もうあかんわ」の連続なのです。
それでもどうにか今回も無事手術も終えて、お母さまはダウン症の弟さんに車いすを押してもらって聖火リレーも走られたのでした。
岸田さんは、
「人生の悲劇は、誰かに笑って語れば喜劇だ」
と語っていました。
これが二十代の女性の言う言葉だろうかと思ってしまいます。
講演も壮絶な人生体験を淡々と語ってくれていました。
感情的にならずにユーモアを交えながら、お涙頂戴のような話にはしないのです。
決して、「不幸な人」にはならずに、「不幸を見つめ、語る人」になっていらっしゃるのだと感じました。
最後に岸田さんは、これからも文章を書き続けて、そして
「言葉にすることで、自分を救い続けていく」
と言ってくれていました。
そしてその言葉は、自分を救うばかりでなく、読んだ人も聞いた人も救ってゆくのであります。
ご講演していただいたその日は、なんと岸田さんの新刊本『もうあかんわ日記』の発売日となりました。
控え室で、その新著を頂戴しました。
せっかくですから、本の扉にサインをお願いすると、
「雨戸をあけたら、
やーっと
晴れてました。
きしだなみ」
と書いてくれました。
横田南嶺