無を超えた先
これもなかなか難しいものであります。
石霜和尚という方の言葉として出て参ります。
まずこの石霜和尚というのが、問題になりまして、禅の歴史では、石霜和尚という方は二人いらっしゃいます。
石霜慶諸禅師(807~888)という方と、石霜楚圓禅師(987~1039)という方のお二人であります。
やっかいなことに、どちらの方にも、無門関で取りあげられている言葉は出て来ません。
最近の研究では、いろいろのことを鑑みて、石霜楚圓禅師のことであるとなされています。
この石霜和尚が、
「百尺もの竿の先で、どう一歩を踏み出すのか。」という問いを出されました。
また、古徳は言われました。この古徳というのは長沙景岑禅師のことです。
百尺もの竿の先に坐る人は、悟ってはいるが、まだ本物ではない。
そこから一歩踏み出して十方世界に全身を現しだすことができると。
百尺竿頭とは、一応悟りとは言えますが、まだ本物ではないというのです。
真実の悟りを得る為には、そこから足を踏み出し、全世界に全身を現し出す必要があるということであります。
そこに無門禅師が、評を加えておられます。
百尺の竿の先から一歩踏み出し、身を翻すことができるのであれば、他にどんな場所であろうと嫌うべきところはない。
窮まった最後の一点からも踏み出ることができれば、もはやこの世界に嫌うべき場所はないというのです。
本来この世界に厭うべき場所などないのだ、どうしてそこに留まっているのかということであります。
とはいえ、まずは言ってみよ、百尺もの竿の先で、いかに一歩を踏み出すのか、ああ。
間違えた一歩を踏み出せば、ああ、危ないぞという意味合いであります。
最後に頌がありますが、その頌では、百尺竿頭に坐することを本当の悟りだと思ってしまうと、とんだ間違いを犯してしまうと説いています。
身と命をともに捨てるという、大死一番、無になりきった境涯とでもいいましょうか、そこを悟りだと思ってしまうと、大きな間違いを犯すのだと説かれているのです。
臨済禅師のお説法に、
「一人は孤峰頂上に在って、出身の路無く、一人は十字街頭に在って、亦た向背無し。」というのがございます。
一人は高く聳える山の頂にいて、救済の方便を持たない。
一人は往来のはげしい十字路に院を建てて接化し、迎合も見捨てもしないというのです。
前者は誰も寄りつかない山の上にいるのであって、百尺の竿頭を意味します。
そこに留まるのではなくて、多くの人が往来する十字路に出てゆくというのが臨済の立場なのであります。
深山にこもるのではなく、十字街頭で世間に迎合せず、背を向けることもせずに教えを説くことを大切にしているのであります。
教えを説くといっても、「禅とはこういうものだ」などと大上段に振りかざすのではなくて、平々凡々のうちにお茶を飲んだり、ご飯食べたり何気ない会話をしながら、自然と導いてゆくのであります。
そこで、その日は私の講座のあとに竹村牧男先生が、華厳の思想についてお話くださることになっていましたので、少し説明を加えました。
百尺の竿頭とは、臨済の言う孤峰頂上であり、それは絶対平等であり、空であり、また華厳では「理」といいます
十方世界は、臨済の言う十字街頭であり、相対差別であり、色であり、華厳で説かれる「理」なのであります。
私の得度の師である小池心叟老師は、分かりやすく、
「皆さんは、この世に生を受けてから生涯を終わるまで、この相対世界の中に生存しているわけです。
この相対世界というのは二元対立の世界です。言葉の世界です。
この二元対立の世界だけが真実と思うては誤りです。
二元対立の世界、相対世界の中に平等一如の世界というものが存在する。
あるいは絶対ともいう。
そういう平等一如の世界というものを自分で自覚して、そしてまたこの二元対立の世界に戻ってきて、あらゆるその対立にとらわれない境界というものを自分で身につけていくのが坐禅です。」
と説かれています。
空の世界、絶対の世界に留まらずに、現実の世界を生きていくのです。
その現実の中にこそ、平等の世界、空の世界があると自覚して、こだわることなく生きるのであります。
華厳では、「理」と「事」で説くのです。
「理」が絶対平等、「事」が相対差別の世界です。
「事法界」が、私たちが毎日生きている相対差別の世界です。
悩み苦しみの尽きない世界です。
その中に、「理法界」があり、それはまさに絶対平等の空の世界です。
さらに「理事無礙法界」というのが説かれて、これはその絶対平等、空の世界が、この現実相対の世界に現れているというのであります。
色即是空なのです。
この現実の世界にあって、平等の空の世界を見いだしてゆくのであります。
普通はそこで終わりそうですが、華厳思想の特徴は四番目に「理」が消えて、「事事無礙法界」が説かれます。
これは、事物と事物が互いに妨げなく融け合っていて、しかもそれぞれが主体性を保ちながら、みごとに調和しているという世界なのです。
松は松のままに、竹は竹のままに、私はこの私のままに、あなたはあなたのままに、それぞれが調和して成り立っているという世界なのです。
これは今日の多様性を認める世界観にも通じます。
坐禅して無になりきって、更にその無を超えて、平々凡々と、茶飲み話をしたりしているのです。
あの良寛さんが、お家に来ると、別にお説法するわけでもなく、お経を読むわけでもないけれども、良寛さんがいらっしゃると自然と家が和やかになるといいます。
しかも良寛さんが帰ったあとも何日も家の者がけんかしたりせずに穏やかになるというのであります。
現実の世界で、般若心経を説いて、空の世界を見いだすのが、理事無礙の世界です。
般若心経も空も説くことなく、平々凡々のままに見事に調和しているのが、事事無礙の世界なのであります。
これが華厳で説かれている世界です。
無を超えた世界、それは平凡にあるのです。
横田南嶺