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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.05.09
今日の言葉

何が有り難いか

岡潔先生の『数学する人生』を読んでいて、禅の話が出ていたので、有り難く嬉しく思いました。

どんな話かというと、次のようなものです。

「昔、支那にえらい禅師がいた。

禅寺のことだからそこにはマキ割りとか、掃除とか、自治が行なわれている。

ある日、弟子の一人が、禅師に向って「もうお年寄だから仕事をなさらないでほしい」と訴えた。

その夜、禅師は飯をくわず「一日為さざれば一日食せず」と言った。

また、別の時、ある人が禅師に向って「何か奇特なことはございませんか」とたずねたら、禅師は「独座大雄峯」と答えた。

大雄峯というのはお寺のあった山の名で「お寺で座っているよ」というほどの意味である。

もし弟子から「近ごろ、先生、何かしていらっしゃいますか」ときかれたら、私はこう答えることになるだろう。

『うん、しているよ。ラジオもテレビも見ず、すわっているよ。格別勉強もしていないが……』」

というものです。

この岡先生が、ここに書かれている「えらい禅師」というのは、唐代の禅僧百丈懐海禅師のことであります。

「一日作さざれば一日食らわず」は「一日不作一日不食」と書きます。

これはよく知られた話であります。

気を付けないといけないのは、「はたらかざる者喰うべからず」と言って、他人に押し付けるものではないということです。

自分自身が、はたらいていないと申し訳ないという思いから、自然とはたらいているというところです。

もう一つの話は、『碧巌録』にある有名な問答であります。

百丈禅師にある僧が質問しました。

「特に奇(すぐ)れた事とは、どんなことですか」と。

百丈禅師は答えました、「わしがここ大雄峰にこうして坐っておることだ」と。

僧は礼拝した。百丈はただちにぴしゃりと打った。

というものです。

原文では、「如何なるか是れ奇特の事」という問いになっています。

禅を修める者にとって「奇特な事」といえば、なんといっても「悟り」でありましょう。

秋月龍珉師は、『一日一禅』という書物の中で、ここのところを解説されて、

「だから、もしいま誰かに「悟りとは何だ」と聞かれたら、「私がここにこうして坐っている」「私はいま、ペンで文章を書いている」としかいえない。

なにも禅者ぶってこんなことをいうわけではない。

ただこういうのが、境涯の上からいうと一番親しいわけだ。」

と解説されています。

ついでに山田無文老師の『碧巌録全提唱』にある解説を参照してみましょう。

「如何なるか是れ奇特の事。

禅宗では何が有り難いのか。

仏見法見でさえ捨てた宗では、いったい何が有り難いのか。

仏が有り難いと言えば、まだ仏見が残っているのかと突っ込まれる。

法が有り難いと言えば、まだ法見があるのかと言われねばならん。

この世の中に有り難いものなど何もあるはずはない。

如何なるか是れ奇特の事と、この僧なかなか油断のならんやつである。

天下の百丈を試験しよる。返事しだいでは許しませんゾ、という勢いだ。」

というように、この僧の問いの鋭さを説いてくださっています。

実に油断ならぬ問いなのであります。

それに対して答えた、「独坐大雄峰」について無文老師は、

「そこで百丈が答えるのに、
「独坐大雄峰ー俺が今現に生きてここに坐っておることが一番有り難いわい」

何と爽快な一句ではないか。

これしかないであろう。

めいめいが生きて、そこに坐っておるという事実以上の有り難いものはない。

金が有り難いか、屋敷が有り難いか、身分が有り難いか。

生きておるから金がいるのだ、生きておるから屋敷がいるのだ、生きておるから出世も悪くないのだ。

一番大事なのは、今ここに生きておるということだ。

言うならば、釈迦も達磨も、俺が生きておるから苦労されたのだ。

俺が生きておるから太陽が照っておるのだ。

俺が生きておるから空気があるのだ。

丈云く、独坐大雄峰。俺が今現に生きてここに坐っておることが一番有り難い、と」というものであります。

さすがに無文老師、実に分かりやすく明快に説いて下さっています。

坐禅は、この上ない有り難いことを、全身で営んでいるのであります。

こうして座布団の上に坐って、静かに呼吸している、これ以上有り難いことはない、これ以上不思議なことはないのであります。

つい先日もある和尚が、お寺に飾る警策に字を書いて欲しいと頼まれて、即座に墨をすって

「独坐大雄峰」と書いたのでした。

藤田一照さんの『現代坐禅講義』を読み直していて、改めて、この本の巻頭に次の言葉があることを再認識しました。

「人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生ずるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えたときに、わたしがよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。(ブレーズ・パスカル著『パンセ』前田陽一・由木康訳(中央公論社))

この「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ」という言葉は今胸に染みるものがあります。

もっともこの本は今から九年前に出されたものなので、今のコロナ禍などはまったくないのですが、今コロナ禍、自宅にいましょう「ステイホーム」などと言われている時に読むとグッと訴えてくるものがあります。

自宅にジッとしていられないから、外に出掛けるという、気持ちはよく分かりますものの、今一度このパンセの言葉や、百丈禅師の言葉を味わってみたいものです。

森信三先生はおっしゃいました。

「一切の悩みは比較より生じる。人は比較を絶した世界へ躍入するとき、始めて真に卓立し、所謂「天上天下唯我独尊」の境に立つ。」

というのです。

今もなぜ落ち着かないのかというと、自由に外に出歩いていた時と今を比べるから、自宅にジッとしているのが苦になるのでしょう。

これが、自宅を失った人からみれば、自宅に居られるだけで幸せでしょうということになります。

ともあれ、あれこれ頭が考えることを少し休んで、どっしりとここに坐ってみましょう。

 
横田南嶺

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