心の中に自然がある
こんな内容を引用して書いたのでありました。
岡先生が、『一葉舟』の中で「真の自分の心」という題で
「人は普通自分のからだ、自分の感情、自分の意欲を自分と思っている。これを仏教では小我という。ごく小さな自分という意味である」
というのです。これが自我というものです。
般若心経でいう五蘊、五つの構成要素を自分だと思い込んでいるのです。
更に「欧米人は自分とは小我のことだとしか思えない。それで個人といえば小我の意味である」
と指摘されています。
「ところが仏教は、小我は迷いであって真我が自分だと教えている。真我とは本当の自分である」
と説かれています。
「仏道の修行法にはいろいろあるが、すべて小我の迷いを離れて、真我を自分と悟るためにするのである」
と実に端的に説いて下さっていて、まさしく禅の修行も小我を離れて、真の自己に目覚めることにほかなりません。
そして、ではその真の自己の心とはどんなものかといえば、
「真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である」
ということを書いたのでありました。
何度読んでもまさにその通りでありまして、仏道の本質を突いています。
いま、岡先生の『数学する人生』を読んでいます。
岡先生は、松尾芭蕉の句を引用されながら、芭蕉を高く評価しています。
そして、このように書かれています。
「芭蕉は真我の人だったのである。
真我の人にとっては自然も人の世もすべて自分の心の中にある。
他は非自非他といって、知らないが故に懐かしいのである。
芭蕉は心の中を楽しく旅したのであった。」
というのであります。
それから、この本の中の「こころ」という章には、
「自然以外に心というものがある。
たいていの人はそう思っている。
その心はどこにあるかというと、たいていの人は、自分とは自分の肉体とその内にある心とであると思っているらしい。
口に出してそういったことを聞いたことはない。しかし無意識のうちにそう思っているとしか思えない。
そうすると肉体は自然の一部だから、人はふつう心は自然のなかにある、
それもばらばらに閉じこめられてある、と思っているわけである。
しかし少数ではあるが、こう思っている人たちもある。
自然は心のなかに在る、それもこんなふうにである、心の中に自然があること、なお大海に一漚の浮ぶがごとし。」
というのでありまして、岡先生の深い洞察には驚かされます。
私なども、仏心というと、一切衆生悉く皆仏性を具有するなど説かれますので、私たちの中に、「仏心」なるものが具わっているように思います。
しかしながら、そのように個々別々の「仏心」なるものがあるわけではありません。
自己の心を見つめてゆくと、自己という枠を離れた大いなるものに触れるのであります。
今までは、五蘊という、身体、感覚器官、感受、思考、意志、認識の集まりを自己だと思い込んでいます。
それが、単に仮に集まって、一時自己のような現象が見えているにすぎないことに気がつきます。
岡先生の言われる、「小我」が崩れ去ってしまうと、大いなる世界が広がります。
我も無く人も無ければ大虚空、ただ一体のすがたなりけり
というところであります。
この広くて一体となったところを「仏心」というならば、私たちの存在は「仏心」という大きな海に浮かんでいる一つの泡にすぎないと気がつくことができます。
岡先生は、この自然さえも、大海に浮かぶ一漚の如しというのであります。
今私たちは、この世界に漂う一漚の如きウイルスに右往左往していますが、時には、こんな大きな見方をすることも必要です。
さらに岡先生は、幼稚園に通っている二人の御孫さんについて触れて、その幼稚園の園長さんの尼さんに対して、次のように述べています。
「小さな子に花の美しさがよくわからないのは、頭の、美しさのわかる部分がまだよく発育していないためではなく、心をその花に注ぐ力が弱いからである。
心を花に集めることができさえすれば、大自然の真智はその心の上に働いて、その子にはその花の美しいことがわかるのです」(大自然というのは言わば奥行を持った自然というくらいの意味である。だから普通言う自然は、この大自然の上面ということになる)。」
「するとその尼さんはすぐにわかって、次のような面白い例を聞かせてくださった。」というのです。
それは「幼稚園の子供たちにはまだ花の美しいことはわからない。
しかし一人だけわかる子がいる。
その子はよく私になついていて、私が花を植えるとそれを手伝う。
花がつぼみをつけて少し色が見えてくると、すぐに見つけ、大騒ぎをして知らせにくる。
花が美しいこともよくわかっているのである。
しかし、ここへは時々娘さんたちがお花を習いにくるが、その人たちには花の美しさはわからない。」というのです。
岡先生は、「私たちが緑陰をみているとき、私たちはめいめいそこに一つの自分の情緒を見ているのです。
せせらぎを見ているときも、「爪を立てたような春の月」をみているときも、皆そうなのです。」
このように学んでいると、なるほど、私たちは、心の世界を生きていること、心の中に自然があることがなるほどと思われるのであります。
横田南嶺